月夜野オブラート


 食べたい。
 腹いっぱいにつめこみたい。
 こどものころ、ほとんど剣呑なくらいの思いでわたしはそう念じていた。
 そのころは祖母のうちへ遊びにいくと、すっかりしわくちゃにしぼんだ曾祖母がまだ生きていた。食後にかならずなにかしらの薬を呑む彼女のために、祖母はこまかい粒子の粉をオブラートにつつんで、水のはいったコップといっしょに盆にのせ、二階へはこんだ。わたしはそれを見送りながら念じたのだ。食べたい、食べたい、腹いっぱいにつめこみたい。
 しばらくして降りてきた祖母は、まだ台所にのこっているわたしをみるとほほえんだ。盆にのったまるいケースをあけると、やわらかい指さきをのせてそっとすべらす。剥離した一枚のオブラートを指につけたままさしだされ、わたしはにんまりとそれを口にふくむのだ。
 舌へひっつく一瞬の不快感。
 それがつぎにはもうじわりと溶けていく。
 わたしはそれが、上等の菓子だと信じてうたがわなかった。家でそんなものをみたことがなかったのだ。わたしにとって家にあるものはすべて使い古された日常で、祖母のもとにあるものは一ランクうえの次元の存在だった。
 じわりじわりとオブラートを溶かしていきながら、わたしは上目遣いで祖母をみつめる。彼女はもうあの魔法の菓子の箱をどこかへしまいこんでいて、にこにことわたしをながめている。どこだ。どこにあるのだ。今度はじろじろと台所じゅうになめるような視線をはわす。いったいどこをあければ、わたしはこれをまた食べられるのだろう。そんなことをしていると、居間で祖父といっしょにテレビをみていた母がやってきて、声をあげる。
「あんたってば、またそんなもの食べて」
 そういうふうに食べるようなものじゃないのよ、と祖母にも咎めるような目線をむける母のわきをすりぬけて、いすから飛びおりたわたしは駆ける。座椅子にくつろいでいる祖父のひざへ、くるりと身をまるめておさまる。ここがいちばんの安全圏だ。祖父は孫のしぐさに相好をくずすし、祖母へも遠慮なしに文句をいう母が、自分の父にはなにもいわないのをわたしは知っていた。
「へんなものばっかり食べたがるんだから」
 へんなものとはなんだ。母のためいきをききながし、わたしは口内へきえたオブラートの余韻をせつなく感じながら上を、二階をみあげた。
 曾祖母のために祖母がつくる薬の包み。粉を孕んだオブラートは、わたしが苦手としている錠剤の薬などよりよほどおおきい。呑みやすいように、という祖母のことばをわたしは全面的に信頼していなかった。あんなものが呑みこめるものか。それならば、粉のままであるほうがよほど易しい。曾祖母の目的はきっと薬ではなくてオブラートなのだ。粉薬を呑むふりをして、オブラートをさんざんに愉しんでいるのだ。わたしは彼女が死んでしまうまで、ずっとそうあやしんでいた。
 とにかくオブラートだ。
 あの魅惑のケース。一枚きりじゃとても足りない。ケースのぶんの厚み、オブラート何枚分になるのかは知らないけれど、それをまるごと手にしたい。舌で一枚一枚溶かすのもいいが、百枚いっぺんにしてかじりついてやりたい。
 それが、わたしの夢だった。

   *

 そんなしょうもない夢を思いだしたのは、目のまえの光景のせいだ。仕事から帰って、ひとりぐらしの小さなへやのドアをあけると、オブラートが舞っていた。
 わたしは無言でたちすくんだ。
 空中浮遊するオブラートは、なんともたよりなげだ。床に着地したかと思えばまた舞いあがる。もちろんオブラートが自力で飛んでいるわけはない。原因は、へやの中央にすえられ天井をむきながら緩慢に首をふりつづける扇風機だ。そしてもちろん、扇風機を作動させオブラートをまきちらかした、月夜野だ。
 眉のうえで真一文字にきりそろえられた緑の黒髪。まっしろな肌をしてまっしろなキャミソールワンピを着ている少女は、まっくろな目をほそめて満足げにみえた。
 月夜野はあるとき気がついたらへやのすみにいて、それからずっとそのままだ。たぶん座敷童のたぐいだと思う。害はない、むしろ福を呼びこむとかいう巷の説を信じて好きにさせておいたら、いつのまにかへやのなかの小物がふえていたり、からっぽの菓子箱が発見されたりする。そしてきっちり、わたしの財布やたんすにしまってあるお金がへっている。どういうことだ。
 ともかく、オブラートなんである。
 わたしはずかずかとへやにはいっていって、足の指で扇風機のスイッチをきった。オブラートは命を失ったようにへたへたとあちらこちらで落ちていった。
 月夜野はじっとわたしをみあげた。
 にらみかえしてやると、すいとほそい腕をのばし、床にへばりついたオブラートを指でおさえた。そっと持ちあげる月夜野の指のさき。祖母の笑顔を思いだした。
 しかし月夜野はにやりと笑ってわたしにそれをさしだした。思いだした笑顔が一瞬で霧散する。いまいましい。
 なんだ、その手は。
 これみよがしにオブラートをくっつけている指は、なんなのだ。
 食えというのか。
 わたしがそれによろこんで飛びつくとでも、思っているのか。
 じつはけっこう誘惑されていたのだけれど、ばかにされるのはごめんである。だいたいそれは、ちかごろ掃除を怠っているわたし自身のへやの床に着地していたオブラートなのだ。食べられるわけがない。
 わたしが腕組みしたまま月夜野をけっとばすと、月夜野はかるく肩をすくめてオブラートをひろいあつめにかかった。箱。あのまるいケースに、散ったオブラートがおさめられていく。ついそれを凝視してしまって、気がついた月夜野がまたにいっと笑った。

   *

 重症である。
 月夜野がこれみよがしにオブラート吹雪をやってみせた日以来、わたしはどうにも不安定だった。日々は胡乱で間遠だ。鮮明なのはオブラートへの思いだけだ。生のじゃがいもをきった包丁、その刃についた白いぬめりをみてごくりとのどを鳴らす始末である。月夜野はそういうわたしに気づいているだろうに、知らん顔をして角砂糖をつみあげたりしている。
 こどものころの思いが圧倒的な濃度でたびたび襲ってきては、わたしを震撼させる。これはなんだか、ほとんど怨念だ。怨念じみたねばっこい思いで、わたしはオブラートに焦がれていた。
 うまくいかない仕事のこと。
 しばらく連絡をとっていない恋人のこと。
 そういう日々の煩悶を凌駕するいきおいで、ああただひたすら、オブラート。
 月夜野はケースをまだ捨てていないはずだ。ゴミだしの日にくずかごをあけたから、それは確かだ。どこだ、どこに隠したのだ。わたしはそのむかし、祖母の台所をみまわしたときよりずっと熱い視線で自分のへやを上から下までねめつける。
 視線に物理的な圧力でもあったのか、月夜野が角砂糖のタワーをくずした。無念そうに口をとがらすのをみて、いいきみだと思う。しかし月夜野は散らばった角砂糖には興味をうしなったようで、けっきょく掃除したのはわたしだった。
 その夜、ふわりと感じた寒気に目をさました。窓があいていて、外からはこまかな雨の音がしていた。
 月夜野は窓のまえにすわって、ぼんやりとしてみえた。
 めずらしいことなので、わたしは起きあがってとなりに腰をおろした。雨はさあさあとやわらかい音色をたてている。空気は清浄だった
 ふと、月夜野の手がふれてきた。顔をむけると、彼女はわたしに腕をさしだす。
 オブラートの箱が、その手にはにぎられていた。
 受けとってから月夜野をみかえすと、月夜野は真剣な表情だった。風がふく。雨がふっている。
 わたしはうなづいて、へやのすみにある扇風機を窓のところまでひきずってきた。首を固定する。すこし上向きに、横にはふらないように。そうしてスイッチをおすと、それは夜へむけて風をおくりだした。
 わたしはオブラートの箱をあけた。
 まるい、うすい、かるい、わたしを苦しめたそれが、つぎつぎと飛びたってゆく。雨にうたれたオブラートはすぐにしおしおと落下してゆき、おそらく大部分が地にふれるまえに溶けてきえた。わたしは扇風機の送風を強にした。
 オブラートが夜の空気に身をおどらせる。わたしと月夜野は、そのさまをみつめた。月夜野の目はきらきらとしてみえた。きっと、わたしもそうなのだろうと思った。
 すべてはほどなくして終わり、わたしは扇風機をきり、窓をしめ、からとなった箱をくずかごに放りこみ、眠りについた。

   *

 オブラート惨殺の翌日から、わたしはいつもの自分をとりもどした。朝はすっきりと鮮烈にわたしをむかえいれた。気分もかるい。手におえない懊悩にうなされていた日々はもうないのである。
 わたしは出かけに、月夜野をふりかえった。
 わたしが笑うと、月夜野も笑った。
 はじめて気づいたことだが、彼女の笑顔はわたしによく似ていた。



(2004/08/27)