落っこちた話


 落っこちてしまいました。
 よしみずくんは、いとものんきにそう応えたので、あたしは状況も忘れて「へッ?」とききかえしてしまった。
「落っこちてしまったのです」
 よしみずくんはくりかえした。
 あたしたちは、ふたりっきりで、ひとりぐらしのよしみずくんのへやに、いる。よしみずくんの意図はともあれ、是が非でも友人以上にもっていきたいあたしにとってみれば、もうぐいぐいいっちゃうぞ、なシチュエイションで。
 話題はよしみずくんの家族のことなんだった。
 よしみずくんのお家はおとなりの県にある。お家にはおかあさんと弟と妹がいるという。おかあさんは市役所におつとめ。弟くんはサッカー部に所属の高校2年生。妹さんは現在中学3年生、でもエスカレーターのお嬢さま学校に通っているから進学は心配いらないんだって。
 そんなながれで、「おとうさんは?」ってきいたんだ。
「グランドキャニオンに、落っこちてしまいました」
 あたしはぽかんと口をあけたまま、よしみずくんのきれいな横顔をみていた。
 それはネタか、と、つっこめばいいのか。
 ばかにして、と怒りだせばいいのか。
 でもあたしのリアクションよりさきに、よしみずくんがことばをつづけた。あたしが惚れてる、ほよんと浮世離れした話しかた。
「家族で旅行にいったとき。ぼくたちの目のまえで」
 落っこちていって、しまったんです。
「へえ」
 なんかもう、わけわかんなくて。
 あたしは遠回しに断られてんのかなあ、なんてちょっとしょげながら、肩をすくめてみせたのだ。
「なんで落っこちてしまったかは、わからないのですけど」
 よしみずくんは、いつもと変わらぬふよんとした表情で宙をみていた。
 そんなことがあって、それが原因ってほど明確な原因じゃないけれど、あたしはすこしづつよしみずくんから離れていって、1年後には、凡庸な顔だちの、すこし舌ったらずなしゃべりかたをする年下の男といっしょにいた。
 よしみずくんが大学のいちばんたかい棟の屋上から飛びおりたというその日は、なつやすみ中で。図書館もクラブハウスもしまっていた時期だから、発見はだいぶ遅れたのだときいた。
「なんか悩んでたのかねえ」
 センセーショナルな、しょせんひとごとの話題を、たいして深刻そうでもなくデートのおしゃべりにまぎらわす彼氏の声を、あたしはだまってきいていた。そっと視線をずらす。どこでもないところをみる。
 落っこちてしまったよしみずくんの、ふよんとした顔が浮かんできた。


(2003/09/16)