いとしいひと


 国ひとつを縦断している、壮大な建造物だと思っていたのだ。
「そのイメージは、あれだね」
 高槻はさしてばかにしたふうもなく、あたしの鼻のてっぺんをかるくついた。
「ベルリンの壁っていうか、万里の長城」
「そうね」
 顔のまえでひらひら動くきれいな手をはらって、となりにすわる彼の肩にもたれる。
「月からみえる、ゆいいつの人工物!」
「それって、ほんとなの」
「ほんと」
 月に行ってきたこともない高槻が自信たっぷりにいいきる。
「早良はさ、おぼえてる? 壁崩壊のとき」
「ニュースでやってた。でもどんな意味があったのかは、ぜんぜん」
 あたしは記憶をさぐろうとしたが、たしかに観たはずのニュース映像はちっともうかんでこなかった。
「一国を分断してた壁を、ひとが壊すんだなあと思って」
 国の北から南まで、ツルハシやハンマーをもった西洋人がよろこびの声をあげながらレンガの壁をうちこわしていく。そんな誤った認識から想像した、戯画のような風景しかでてこない。
「崩壊といえば、ソ連のときも」
「ん」
「ソ連って、かたかなと漢字のまじったかっこわるい国名だと思ってて。正式名称と国家体制を理解するまえに、解体してしまった」
 あは、と高槻が笑った。
「まあさ、おれはさ」
 彼の手があたしの髪をすく。あたしは目をとじてその感触をおいかけた。
「中国でもロシアでも、まして月にいくわけでもないんだからさ」
 日帰りだって、できるんだから。
「大学はこっちを受けるしさ。2年もないよ。そしたらまたずっと、そばにいられるよ」
 それにね、と。まるで愉しくてしかたないみたいにおおげさな声をあげて。
「携帯もメールもあるし。毎日だって話せるんだ」
 だから、たいしたことじゃないじゃない。
 そういって、高槻は笑う。
 あたしはゆっくりと目をあけた。
「早良?」
 にっこりと、顔をのぞきこんでくる、高槻。
 あしたにはもうそばにいない、あたしの高槻。
「ね、早良。たいしたことじゃ、ないよ」
 あたしはすうと息をすいこんだ。
「そうね」

 うそつき。

 そのことばは声にはならず、かわりにあたしは腕をのばして高槻を抱きしめ、むりやりみたいに乱暴なキスをして、高槻に呑みこませた。
 2年後にはきっとそばにいない、あたしのいとしいひと。


(2003/10/27)