天使襲来


 世界が変化してからどれだけの時間が経ったのかはわからない。わたしたちはだれがいいだしたかもわからない、あてのない「救助」を求めて家のまえの道路にうずくまっていた。人数は10人にやや足りない。これが、この住宅街にいま生きている人間の総数なのか。
「喬子ちゃん」
 おむかいに住む端本のおばさんが、そろりと家の窓をあけて庭におりてきた。
「これ、みんなにくばって」
 わたされた食糧を手にふりかえると、車座になったひとたちの半数はもはやすわっている気力もないのか、アスファルトに倒れこんですすり泣いていた。端本のおばさんがつくってくれたおにぎりを受けとるのも、まだ背をしゃんとさせて力強くあたりをみまわしているひとばかりで、気づいてみればそれは全員、わたしもふくめて、女性ばかりなのだった。
 体力でいえば、男性のほうがあるはずだ。だからはからずもわたしが感じたように、地につっぷしている男たちには気力のほうが問題なのだろう。陰鬱に曇った、異様な空のした。いつまでも夜にならない、朝もこない、奇妙な空のした。まっさきに神経をやられていくのは、男ばかりなのだ。
 ひょっとするとこの現象がすべて、男性だけを標的にしているものなのかもしれない。ぼんやりとそう思う。だからといって、やられていくかれらを奮いたたせる術もなく、むしろそんなことを口にしたらよりいっそうの絶望にたたきこみそうなので、わたしはだまっておにぎりをほおばった。
 ふとよどんでいた空間に変化が生じた。
 はっとしてみあげると、空が動いていた。
 ものすごいいきおいでながれていく、雲、雲、雲。
 男たちも顔をあげ、急激にはじまったその流れに見入った。
 いや。
 魅入られているようだ、とひとりの顔に恍惚のようなものを感じていぶかしんだとき、端本のおばさんがちいさく悲鳴をあげた。
 空に目をもどしたわたしも息をのんだ。白と黒。モザイク模様のように明滅していた雲は、ここにきてとつぜんかたちをとりはじめた。それは薔薇いろをした、天使の像だった。
 彼女たちは――――そう、それはあきらかに女だった、女の天使たちは、ふっくらしたあどけないほほに、やさしい笑みをうかべてわたしたちをみつめていた。その背には純白のきらめく翼がみえた。なんてうつくしい、そう衝撃が背筋に走ったとたん、

 ちがう。

 かみそりのようにするどい直感が告げた。
 うつくしいのではなく。
 彼女たちは、まがまがしいのだ。
 そう気づいて立ちあがった瞬間、天使たちがおそろしい笑顔のまま、ものすごいいきおいで落下してきたのだった。
 わたしは叫んでいた。ことばにならない叫びだった。わたしたちめがけて急降下してくる天使たちは邪悪だった。それでも、わたし同様その場にいた女性全員が立ちあがって、叫んでいた。
 わたしたちでしか、この天使をふせげない。
 その認識はもう事実のように、わたしたちのからだをつらぬいて、わたしは闇雲に腕を天空へつきだした。
 なにかを打ち破るてごたえがあった。
 やれる。
 わたしは息をすいこむ。
 この拳ひとつで、殺せる。
 天使の落下はわたしたちが密集していた場所よりも広範囲だった。端本のおばさんはすぐそこにみえている公園へ一足飛びへ走り、そこで応戦した。わたしはその場でひたすら腕をふりまわした。
 天使を破るときの感触は、遠いむかしに経験したことがあった。年末の大掃除。障子のはりかえどき。このときばかりはいくらでも障子紙に穴をあけてよく、わたしはよろこんで格子のあいだに拳をつきいれたのだ。
 攻撃がやんだあとも、心臓の動悸はなかなかおさまらなかった。戦えるのだ。この手で、わたしは、戦えるのだ。
 うれしくなって、しばらく空中へむけてボクシングのように腕を交互に振るっていた。

   ***

 男たちは家のなかで保護しておく。
 それがわたしたちの結論だった。みんな旅支度をととのえていた。もうわかったのだ。戦うのは、わたしたちの役目だった。
 泣き伏せている男たちは、ひとりひとりわたしの家におしこんだ。そうして窓という窓をすべてふさいだ。かれらは人恋しさで死ねる生きものだから、ふらふらさまよい歩いてしまわないとも限らない。出窓のわきにある回転窓だけはうっすらとあけておいた。空気のいれかえにもなるだろう。
 玄関は、とくに厳重にふさいだ。みなが持ちよった羽毛布団をドアノブに押しこむ。どんなに手をつくしたところで、内部から男たちがあけてしまっては意味がないのだけれど。
 わたしは、落下してきた天使たちのうつくしさを思った。
 彼女たちの勝ち誇ったようなまがまがしい笑顔に身震いがして、でも。
 わたしたちは行かなくては。
 端本のおばさんが、確認するようにわたしたちを見回した。全員がうなづいた。

 さあ、行こう。


(2004/09/14) ***の箇所でいちど起きました