それだからチェーンソー


 あまり聞きなれない音だった。
 居間で首までこたつにもぐりこみ、ぬくぬくとまどろんでいたわたしを起こしたのは、台所から聞こえてくるその音だ。聞きなれない、けれども絶対に知っているはずの、記憶のあわいを不快にひっかく音。どこまでも自分を堕落させていきそうなぬくたさから、むりやりに身を起こす。未練がねばねばと糸をひいて、いっそう不愉快になる。
 うるさいな、とこたつの享楽に麻痺したあたまでかんがえる。母は家を留守にしている。祖母は和室で寝ている。ならば台所でみょうな音をさせているのは、消去法で父となる。
 おとうさん、と呼んだはずなのに、ちょうど居間と台所を仕切るドアがしずしずと開いていき、あふれだした音は耳を聾する大きさになって、なにも聞こえなくなってしまった。そのときになってはじめて、なるほどドアが閉じていたのかとようやくわたしは気がつき、ドアが閉じていたからこれがすぐにわからなかったのだな、と納得していた。聞きなれない音。おそらく生で聞いたことはないはずの音。それでも目にすれば、なるほどこの音だったのかとわかる音。
 ドアが開いて、あらわれた人影は逆光の黒。手に持ったチェーンソーだけが、さえざえと白かった。
 人影はとうぜんのことながら、父だ。真っ黒の人影に父の面影はないけれど、台所から作動させたチェーンソーを持って現れるのは、もちろん父にちがいない。
 漆黒の人影からは、透明な意志だけがうかがえた。
 父はチェーンソーで、わたしを切り刻んで殺す気なのだ。

   ***

 こたつに足をつっこんだまま、唸るチェーンソーを抱えあげた父と向かいあった。どうしてすぐに飛びかかってこないのかはわからないけれど、即座にけたたましい凶器をふりおろされなかったせいで、逃げる、という選択肢を強いられる結果になったようだ。とにもかくも、わたしはからだを父にむけたまま、背後の掃きだし窓まで飛びのいた。幸いにもあけっぱなしだ。動きださない父から目を離さないまま庭に下りて、そのとき目の端に映ったものにぎくりとした。
 和室のふすまがあいて、ねぼけまなこの祖母が顔を出している。
 わかっている。わかっていた。わたしは、彼女を見捨てて逃げる。そういう至極まっとうな卑怯さが自分にあるのはもとから知っていた。胸がしめつけられるけれど、その痛みさえ、祖母が父に殺されたら、まんまと逃げおおせた自分は世間からどんな責めを受けるのかと慄いているだけなのだ。
 なにがあったのかとふしぎそうに小首をかしげる祖母と窓硝子ごしに視線をあわせたのはほんの一瞬、わたしは彼女に背をむけて、庭の柵をよじのぼった。
 団地の出口ですれちがったひとの携帯電話をかりた。逃げつづけることはできない。逃げているかぎり、いずれ背中を切られる羽目を負う。110番に電話をした。保護を求める。父が、家で、チェーンソーを。
「チェーンソーを持っていたので、逃げてきて、それで、わたし」
 ふいに涙がこみあげた。
「わたし、おばあちゃんを、おいて逃げてきてしまった」
 自分でもおどろくほどすなおに、ことばはこぼれた。嗚咽がもれる。苦しい。苦しい、苦しい、苦しい。
 そちらにむかうには一時間半ほどかかります、と、冷静というより酷薄な声が聞こえてきて、感傷は現実の危機に遮断される。一時間半。なにをふざけたことを。声を荒げようとしたとき、かすかな雑音が聞こえた。受話器のむこうから、あの音がする。
 どういう仕組みか、警察は、父の味方なのだ。
 電話を切って、そしてわたしは、いま来た道を戻りはじめた。

   ***

 家に帰ると、母が出先から戻ってきていた。おどろいたようにわたしを迎える。
 父はまだ、台所でチェーンソーを唸らせているのだろうか。
「おとうさんが、わたしを殺そうとしているよ」
 途方にくれて訴えてみると、母も途方にくれたような目線を返してきた。
 それでわかった。
 わたしはもう、死んでいるはずだったのだ。母も承知のうえだったのだ。だから、家を留守にしていたのだ。
 すうと気持ちが平静になる。自分の立場を理解したせいだ。
「さっき、おばあちゃんを置いて逃げてしまったけど」
 こまったように無言でいた母が、あのひとならだいじょうぶだと、そこだけはしっかり頼もしくうなづいてくれた。ならば、だいじょうぶなのだろう。祖母も母も、無事ですむのだろう。あのチェーンソーで切り刻まれるのは、わたしだけなのだろう。
 だいぶ気が楽になった。
 それからまた、逃げる算段をかんがえる。警察があてにならないのなら、知り合いの家に隠れ潜むしかない。あまり家から離れたくはなくて、近所でやっている英語塾を思いだす。あそこなら、匿ってもらえる。
 また家に背をむけて、走りだした。ふしぎとからだが軽い。
 かつて通った道筋を正確にたどって、先生の家をめざす。屋根がみえてきた、と息をついたとき、異変に気づいた。視線が高い。不自然に、高い。同時に、走っているのにほとんど前に進めなくなった。ひょっとして、と足元をみれば、やはり、浮いていた。
 気づいたときにはもう、電信柱のなかほどの中空だった。
 すこしおどろく。自分は飛べたのか。それから、それならばもっと高く、電線のあたりまで飛んでしまおうと足にちからをいれる。ところがそこには地面がないから、ふわふわと空中を足踏みするだけで、ちっとも飛びあがることができない。
 空を歩けるのも、不便なものだ。それとも、わたしがまだ慣れてないからだろうか。
 ただひとつだけ、よくわかったことがある。
 わたしがこんな性質(タチ)だから、父はわたしを殺さなくてはならなかったのだ。


(2007/01/28) だからってチェーンソー