未解決事件(1)


「この通りに行動してくれ」と上司から手渡されたのは、1冊のごくうすい文庫本だった。
「読んだことはあるかね」
「はあ」
 わたしは意味をとらえかねたまま返事をした。以前、単行本で出たときに読んだことのある本だった。筋も登場人物も、それなりに記憶している。
「きみは、****として参加することを求められている」
「はあ?」
 こんどの返事は、隠しようもなく語尾上がり。****は人名のように聞こえたが、依然、なにを求められているのかわからない。そのあと上司からうけた説明は、どうかんがえてもみょうちきりんな任務の依頼だったが、それが仕事である以上やるしかないのである。
 都内某所で、防犯を目的としたぬきうち訓練がおこなわれる。その訓練のシナリオは、手渡された文庫本の内容とおなじだという。****というのは、ある脇役の名まえだった。おぼえていなかったのだから、役割もその程度なのだろう。だが楽なわけではない。それは本を読みかえしていて思った。本のなかのことだから、この脇役―――主人公でも犯人でも鍵となる人物でもない、お手本のような脇役が、物語にあらわれないあいだ、どこでなにをしているかなんて、どうでもいいことだ。というより、そのあいだの脇役の行動は、存在しない。無なのである。ところがわたしは生身の人間なので、脇役が退場してからふたたび登場するまでのあいだも、筋からはなれないよう行動しつづけなくてはならないのだ。
 なかなかやっかいな、と再読を終えた文庫本をおいたとき、さらに重要な問題に気づいた。この訓練に参加している、わたしのようなサクラは何人いるのだろう?
 サクラが多すぎては、訓練の意味がない。おそろしいことに、ひょっとしたらわたしひとりなのでは? つまりわたしは申し訳程度の脇役を逸脱することなく、その場の流れをなるべく筋から外さないように立ち回らねばならぬということか?
 むりだ。
 むり、むり、ぜったいにむり。
 ずどんと「絶対無理」の認識をのみこまされたわたしは、かえって腹がすわり、くるならこい、という心境にいたった。
 ともかく、あすは早起きなのだ。
 仕事の成功を祈って、その夜は文庫本をまくらのしたに敷いて眠った。

   *

 息を切らして走っていた自分は、なにものかの背中にいきおいよくぶつかった。こちらの鼻がひしゃげそうだというのに、ひろい背はこゆるぎもしなかった。
「す、すみません」
 鼻をおさえながら、逃走経路をふさいでいるこの巨体はなんだ、と顔をのぞきこむと、目を恐怖にみひらいた中年男だった。訓練の参加者、おそらくは訓練と知らずにこのストーリーの片棒をかつがされている、役割としては「主人公」にあたる男だ。
 どうしました、とたずねかけて、男がみているものにわたしの目も釘付けになった。
「え?」
 通路のさき、階段の手前に倒れているのは、華奢な女だ。ほそい手足はねじくれていて、まっしろな肌も手伝ってなにかのオブジェのようにみえた。しかしオブジェのはずがない。彼女のまわりにあるのはまぎれもなく血だまり、それも、まだあたたかく、湯気をたてていそうになまなましい鮮血だった。
 誓っていおう、そのときのわたしの衝撃は、この男の比ではなかったはずだ。
 無残な屍をさらしているこの女こそ、今後の展開にかかせない人物だったからだ。
 おかしい。彼女がここで死んでしまうだなんて。しかしショックは続けさまに襲う。
「どうしました!」
 うしろから追いついてきた青年が、やはり男にぶつかりそうになって、足をとめた。うっとするどく息を呑み、「これは、ひどい」とうめいた。
 そう、ひどい。なんともひどい。
 青年は、ついさきほどまで、わたしといっしょにいたのだ。わたしのほうが足が速かったので、この場にはやくたどりついただけで、ここ数分はずっと行動をともにしていたのだ。
 そしてこの青年こそが、事件の「犯人」役であるべきはずだった。
 思いだしたように、廊下に警報が鳴りひびく。その音にはっと顔をあげた青年――――犯人役であるのに、犯人にはなりえないことをわたしが身をもって証明してしまった青年は、わたしと男の腕をひいた。
「こうしてはいられません、急ぎましょう」
 そうだ、急がなくては。物語の要となるつぎの場面に、警報が鳴りやむまえに移動しなくてはならない。その広間で、全員が顔をそろえるはずなのだ。
 しかしひとりは、あるべからざる姿となって、すでに息をしていない。
 このさきの展開は?
 展開は、どうなるのだろう?
 しかしこの場でわたしにゆるされた判断は、とにかく、また、走りつづける、ということだけだった。
 いつだって、それくらいしか、決断できることはないのだ。


(2007/07/03) 未解決です。