悪夢


 目を覚ますと、うっすら汗ばんでいた。たっぷり陽にほしたふかふかのふとんは、もう熱を冷ましている。とりこんだついでにちょっと横になっていたら、いつのまにか眠ってしまったらしい。
 窓をあけていなかったのだっけ。
 うんとのびをしても、けだるさは消えなかった。ふとんが吸いこんだ陽のあつさが、肌にうつってしまったようだ。風をもとめて、ガラス戸をあけた。公園に面した庭にはひくい生垣があって、砂場がすぐそこだ。ひとりでボールを蹴っている少年がみえた。小学校の低学年くらいだろうか。つかっているボールは、サッカーボールの模様がついたゴム製のものだ。器用にリフティングしているさまをながめていると、ちょうどボールのように、視界をなにかがぽうんと跳ねてよこぎった。
 異様なものをみた気がして、しきりとまばたいた。よくみてみれば、それはちいさなコリー犬だった。異様、と思えたのは、その首のまわりに短冊状の布が、色あざやかにまとわりついているからだ。コリーは公園をはずむような足取りで一周した。首の布が黄色にピンクに薄緑に、ひらひらとはためいた。飼い主に服を着せられているたぐいだろうか、それにしてもあれはどういったセンスか、とあきれるよゆうが生まれてきたころ、コリーはひとこえ吠えて、公園をでていってしまった。
 気づけば少年もボールを蹴るのをやめ、コリーが去ったほうをみつめていた。ボールの弾む音もしなくなって、その場を支配したのはコリーの最後の声だけがいつまでも尾をひく、凝固したような沈黙だった。
 通り魔のようだ。
 ふと思いだすように、そんなことばが浮かんできた。
 少年がこちらをみていた。
「飼い主がいなかった」
 声は幼いが、思いのほかしっかりしている。
「ああ、そういえば、そうだったね」
 リードをつけていたようすもなかった。やっとそれに思いあたって、かんがえこんでしまう。少年は心配そうに首をかしげた。
「どこからか、逃げてきたのかな」
「……うーん」
 警察、に連絡するものなのだろうか。それとも自治会長あたりが妥当か。
 悩んでいると、ふいに少年がすっと背すじをのばし、おそろしい声でいった。
「あれを生かしておくわけにはいかない」
 轟くようなそのひびきを耳にしたとき、気がついた。
 なるほど、これは夢なのだ。
 夢をみている、と気づいたとたん、天からふってきたような負荷がからだにとりついた。ずうん、と芯までしびれるような重さだった。手足がうまく動かない。
「――――そういうことですので、逃げだした犬を捜索せねばなりません」
 てきぱきとした声は、きゃしゃなめがねをかけて髪をひっつめた女性のものだ。美人である。しかし顔をみるためには負荷をはねのけるように首をあげていなくてはならなくて、すぐにへこたれた。女性はこどもたちを指揮し、一箇所にあつめている。
「あなたもおいでなさい」
 声がすぐそばでした。したをむいている目にうつるのは、赤いパンプスのみだ。
「あれを捕らえなくてはなりません、おわかりでしょう」
「あの、ええ、まあ、そうですね」
 苦労してまた顔をあげた。まぶたも重い。眠いのだ。眠っているのに眠いだなんて理不尽だ。
「あのですね。これ、夢なんですよ」
 そう告げると、女性は心外だといわんばかりに眉をあげた。美人の怒気には清冽さがある。しかしたとえ怒られても、この事実はゆるがない。これは、夢なのだ。
「わたしがみている、夢なんです」

   ***

「ああ……」
 自分の声で気がついた。目が覚めたようだ。
 やれやれ、と起きあがったところで、ぎょっとした。これもまた夢だ。だって自分は壁を歩いている。天井からさがる照明が顔の正面にあった。
 気づいてはいけなかったのに、と後悔したのは、その直後だ。またからだが重たくなった。こんどはほとんど動かない。照明が目にまぶしいが、まぶたを閉じることもできない。さて困った、困った。ずっと目をあけたままでは、からだは起きていると錯覚して、夢から覚めることもできないのではないか、と思う。
 目がひりひりしてきた。あたまのうしろ、つまり床のほうでは、じー、じー、となにかの音がしている。
 はやく夢から覚めたいな、とためいきをついたとき、ようやくまぶたがすっと閉じた。

   ***

 ――――またしても!
 どういうわけだか、起きた瞬間にわかった。まだ夢のなかである。
 しかしからだは自由に動く。そこは快適である。
 ふとんから身を起こして目をおさえていると、玄関のほうで音がした。ただいま、という声は、母のものだ。
 一瞬だけ、夢のなかだという認識が遠のいた。しかしあわててひきよせる。母がこの時間に帰るはずはない。だからこれは現実ではない。
 とはいっても、習慣で「おかえり」と返事をしてしまうのはしょうがない。
 母がにこにことなにかいいかけたのをさえぎって、さきに宣言しておいた。
「あのさ、これ夢だから」
 母は目をまるくした。
「なんていったって、夢だから。忘れないで」
「夢って、どのへんが?」
 そういってあたりをみまわす母につられて、首をめぐらす。たしかにいつもの自分の家だ。だが。
「どのへんっていうか、ぜんぶ。まるごと夢」
 強固にいいはる子になにを思ったのか、母は肩をすくめて、エプロンをとりだした。
「じゃあ、その鉢植えも夢?」
 あかいギンガムチェックのエプロンをつけた母がしめしたさき、まくらもとにはみなれない植物があった。
「ああ、それは。えっと、うさぎ」
 うさぎ?とききかえす母の声をききながら、みるみる記憶がクリアになっていくのを感じた。
「そうそう、うさぎだ。犬じゃなくて、うさぎではじまったんだった」
 そして、あのいまいましいうさぎたちを思いだしたのだった。

   ***

 目が覚めると、庭にうさぎがいた。
 めずらしい、と思い、そっと窓をあけてみた。うさぎは逃げなかった。
 うさぎといっても、これはナキウサギです。
 どこからかそんな声がきこえた。ほうこれが、とみてみると、なるほど耳がみじかい。
 たいへん貴重な野生種ですから、けっして手をふれないで。なにをしても、怒らないで。
 声をききながらながめているうちに、うさぎはみるみる増えていった。たいへん貴重な野生種のわりには、ありがたみのない数だった。おまけに家にはいりこもうとする。手をふれないで! とするどい声がしたので、とっさに身をひいてしまった。
 うさぎたちは、のうのうと家に侵入し、しゃあしゃあと徘徊した。やつらが口にくわえている草が気になった。みていると、畳にそれをおいていく。おかれた草は、そこから芽吹いたように自然に畳から生えていた。
 ちょっとまて、じょうだんじゃない。我が家がえたいのしれない植物の苗床になってしまう。
 それはうさぎたちの大好物なんです。刈らないでください。
 うるさい、だまれ。たいへん貴重な野生種ならそれらしい場所へ帰ってしまえ。この奇妙な、うねうねと蔓をのばす植物もいっしょに北海道に帰れ。
 声を無視して、植物をひきぬこうと手をかけた。

   ***

「だからたぶん、それの残り」
 説明をおえてふりかえると、そこにいたのは母じゃなかった。知らない女だ。濡れたように黒い髪がながかった。ふむ、と腕を組む。夢だから、いつのまにか人物がいれかわるのはお手のものだ。それはそうと、彼女にもいっておくべきだろう。
「こんにちは。ええと、ここは夢なんで」
 女はすっと目をあげた。真っ黒なひとみがなまめかしい。
「夢?」
 きれいな声も、どこか濡れたようにきこえた。
「まあまあまあ。そんなはずはないわよ、夢なんて」
 うつくしく笑う女だった。しかしそこを否定されてもらっては困る。
「もうしわけありませんが、確実に夢です」
「おどりましょう」
 人の話をきかない。女はかってに手をひきよせて、ホールドの体勢をとった。フォークダンスしか知らないのに、なにをやらせるのだ。しかしからだはみちびかれるまま、流麗な動きをみせた。さすがは夢だ。
 女はほほえみながら、ちいさく歌った。つかまれている腕がつめたい。ほんとうに、濡れているんじゃないだろうか。すこし怖くなった。しかし恐怖を悟られてはいけない、と思う。ここは夢だから。夢のなかだから。怖がれば、夢は怖くなる。女は声をあげて笑った。
「どこへ行く?」
 どこへも行かない。首をふる。女はなおもきく。
「どこへ行く? どこへどこへどこへ行く? どこへ行きたいの?」
 ぶん、と大きくふりまわされて、この夢からふりおとされるのを感じた。

   ***

「――――夏休みの、自由研究だあ!」
 彼女ははじけるような笑顔でいった。
「ね、行こう行こう。みてみよう」
 デートに水族館をえらんだのはこっちだった。彼女の興味はそればかりでなく、併設してある「自由研究資料館」にむかったようだ。
「ほら、いつかの夏の、夏休みの自由研究が展示されてるんだよ。おもしろいのばっかりだよ」
 そこに彼女のものはあるかもしれない。すこしだけ悲しかった。自由研究で、なにかひとつでもおもしろいことをしただろうか?
「いいんだよ、作ったんだから。だれかが作ったんだから」
 彼女にひかれるまま、段ボールの骨組みの内部をのぞきこんだ。
「すごいね」
 うん。これはきっと、正義のマシンの操縦席だ。
「わたし、動かしてみる」
 それはいけないんじゃないかな。ほら、むこうに先生がいるし。
「だいじょうぶよう。みててね」
 とめるまもなく彼女は乗りこんで、ひらがなで用途がかいてあるスイッチやレバーを楽しそうに動かした。
 ばりばりばり、とおだやかでない音がして、へやの反対側からすさまじい怪獣がたちあがらんとする。
 ちょっとまって。これは、あの怪獣の操縦席なんじゃない?
「そうだよ、知らなかったの?」
 知らなかった。ていうか、やばいと思う。とめてほしい。
「ごめん、むりむり。でもね、大気圏外を飛ぶときは抱きしめていてあげるから。それなら安心でしょう、へいきでしょう?」
 世界でいちばん安全に運ばれる。
 うん、それは、すごくいい。

   ***

「また夢なの?」
 母が台所にたっている。
「そう、夢」
 地獄のような声がでた。うう、と唸ってあたまを抱える。
「しんどい。めんどい。かったるい」
「たいへんねえ」
「ごはん」
「いま、つくってるから」
 ああ、とためいきひとつ、とにかく気をはっきりさせようとほっぺたをたたいた。
「あのう、すみません」
 ていねいな声にふりかえると、髪をひたいの中央ですっきりとわけた中年の男が、掃除機片手に立っていた。
「おそうじに参りました」
「それは、どうも」
 からだをずらして、男をとおす。男は掃除機のコードをのばして、コンセントをいれた。そのまま、しばらくかちかちとスイッチをおしていた。困ったような声がした。
「電気がきていないようです」
「ああそれは、きっと夢だからです」
 男が困った顔のままふりかえった。いわれたことを、理解していないようだった。
「これはわたしの夢なので。たぶん、電気のことまで気がまわらなかったんでしょう」
 男は返事をせず、母のほうにブレーカーが落ちてはいないか、たずねている。
「わかりました、ちょっと、こちらへ」
 掃除機をぐいとひっぱって、両手をあてた。
 動け動けと念じながら、即席で呪文のようなものを口にする。夢なのだから、思いどおりになってくれてもいいはずだ。
 はたして掃除機は動きだし、男は接触不良だったんだ、という顔でそうじをはじめた。しかし、コンセントが外れていることには気づかないようだ。
 満足だった。
 つよく念じれば、思いどおりに立ちまわれるらしい。
 そこでふとんに横になり、こんどこそ夢から覚めますようにと念じて目をとじた。


(2007/07/05) 疲れた。