メイズ


   【メラニー】

 気がついたら、霧のなかだった。
 突然に――――ほんとうに、突然に、一瞬にしてフロントガラスが白く曇ったと思い、とっさにブレーキを踏む。もともとたいしてスピードが出ていたわけでもなかったから、車はやわらかに、もしかしたらやわらかすぎるくらいに、そっと、停止した。ほうっとためいきをひとつ。そこではじめて、霧なんだ、と理解する。
「外に――――」
 出てみなきゃ、とことばを継ぐ。ひとりごとのつもりで、でもすぐに、助手席にいる弟の存在に気づく。デイヴィッドはまじろぎもせず、フロントガラス越しの霧を見すえていた。
 この子の目は、こんなに真っ黒だった?
 ふいに、まるではじめて見るように弟を思い、でもデイヴィッドがうかがうように私に顔をむけてきたので、その一瞬のふしぎな感覚は散っていく。
「外に、出てみようか」
 勇気づけるようにほほえみかけると、デイヴィッドは眉をしかめてみせた。幼い弟がまじめくさっているのがかわいらしくて、すこし笑う。ハンドルから手をはなして、デイヴィッドの頭をなでる。さらさらと細い髪が、つめたく指のあいだを通りぬけていく。
 そもそも、はじめから道に迷っているようなものだったのだ。エンジンを止め、運転席のドアをあける。ディヴィッドを助手席から抱き上げて、いっしょに降りた。足元はしめった草、そして土。もうずいぶんまえから、舗装された道を走っていなかったのだ。
 デイヴィッドを手をつないで車の前にまわる。おどろいたことに、ほんの数メートルの距離に人がいた。
「こんばんは」
 すこし大きな声をあげる。人影はふりかえった。
「やあやあ。その車はおじょうちゃんのかい?」
 おじょうちゃん、という呼びかたに肩をすくめてみせる。祖父と同じくらいの年代だろうか、白い髪、茶色の太い縁のめがねの男を筆頭に、あと数人が近づいていくこちらのようすをうかがう気配があった。
「そうです。レンタカーですけど」
「何人乗れる?」
 男は私がデイヴィッドの手をひいているのに気づくと、身をかがめて手をひらひらっとふった。すぐとなりに、二十歳をこえたあたりと思しい青年が近づいてくる。こちらは舌打ちでもしそうな顔で、でもどうやらそれは私たちを見て、というわけでもなさそうだった。
「むりだろじいさん。そいつらいれて10人は居る、乗りこめやしない」
「……あのぅ、皆さん」
 皆さん、というところで足をとめ、霧の中あらわれた一団をみわたす。連れというわけでもなさそうな、これといって共通点のない人たちが、みょうに黙りこくったようすで立っている。
「皆さん、遭難でもされたんですか?」
 まぬけな質問だとは思ったけれど、きいてみる。しゃがみこんでデイヴィッドをかまっていた男が立ちあがり、苦笑した。
「残念ながら、それに近いようなんだ」
 霧に巻かれたのは、私とデイヴィッドだけではなかったらしい。
「もし車に乗れても、あまり意味はないかもしれません。私たちも、ぜんぜん道がわからなくて。おまけに、この霧で」
「そうだなあ。まあせめて、屋根のあるところで女子どもを寝かせることはできるかな」
 ロバート、と名乗った男は、めがねをかけなおしながら首をふる。
「このまま、せめて霧が晴れるまで――――」
 かれの声は、ふいにはじまった喧騒にさえぎられた。
「やだ」「え、なぁに」「押すなって」「なにが――――」
 急にだれかが叫びだし、つられて何人かが声を荒げ、そしてもつれあうようにして、ちょうど私とデイヴィッドがやってきた方向へなだれこむようにして動きだす。「なんだ、落ちつくんだ、どうした」とロバートがよく通る声をはり、でもあっというまに女の悲鳴でさえぎられる。
「いや、いやぁっ、ほら、来る、来ちゃう、もう」
 なにがなんだか分からないままに、だれかが走りだし、だれかが私にぶつかって、私はデイヴィッドの手をはなさぬまま転びかけ、ロバートに支えられ、まただれかの悲鳴、高ぶって怯えきった声、そんなものがぐちゃぐちゃになったなかを、全員がいやおうなく駆ける。
「なんだ、なにが来るっていうんだ」
 ロバートの声にまともな返事はかえってこない。わたしは握りしめたデイヴィッドの手をはなさないようにだけ意識を集中した。


   【アレクサンドル】

 そのパニックは、はじまったときと同じように、唐突に終わった。
 みんな立ちどまり、息をきらして、ただおたがいを見回した。
「いったい、なにが」
 じいさんがぜいぜいとのどを鳴らしてる。となりには車にのってやってきた華奢な女と、その弟なのか、やけに無表情なガキ。
「だれだよ、叫びだしたやつ」
 おれは腹立たしげに毒づく。他の連中は不安そうに顔をみあわすばかりだ。どいつもこいつもまぬけ面。もちろんおれもそうなんだろう。腹がたつ。最初に叫びだしたのは女だったと思うが、たぶん自分もつられてわめいた気もするのだ。
「人が」
 ガキを連れた女が確認するようにぐるりを見渡した。
「人が、減っていませんか?」
「は?」
「いえ、最初に何人いたのか、私はわからないんですけど……」
「わしらも数えていたわけじゃないからなあ」
 じいさんが息を整えながら受ける。おれは改めて、その場にいる人間を見渡した。おれ。じいさん。車の女とその弟。頬を火照らしている小太りのおばさん。夫婦らしい中年カップル。それから顔が真っ青な、10代の女。
「キミーが」
 その女が泣きはらした目をして言った。
「キミーが、いない」
「叫びだしたのはそいつか?」
 おれは吐きすてるようにきいた。甲高いヒステリックな声。いま思いだしても、背筋がチリっとする。
「そう、わかんないけど、いきなり、振りかえったと思ったら叫びだして――――」
「来るってのは、なんだ」
「やだ、キミー、なんでいないの、やだよ」
 女は友人の不在にうろたえるばかりだ。苛々してきて、手がでそうになる。
「ねえ!」
 おれが手をあげるまえに、小太りのおばさんがすっとんきょうな声をあげた。
「ねえ、わたしたち、どこにいるの!」
 おばさんのいってる意味が、すぐにはわからなかった。おれたちは、もともと居る場所を把握できていなかったのだから。
「……壁?」
 中年の男のほうが、あやふやな口調でつぶやく。あたりを見回し、手をのばして――――それで、おれも気づく。いつのまにか、おれたちが集まっているのはだたっぴろい草むらではなく、ほそい通路のような場所だ。ミルク色の霧は濃く、足元には土の感触、空気はつめたい。そして立ったまま、手をめいっぱいのばせば、指先がなにかに触れる。
「こういう、庭園、ありますよね……」
 車の女がつぶやく。そう、おれたちの両脇につづくのは、きちんと刈り込まれ、整えられた木々だった。あんまり葉が密集しているから、壁といってもあながちまちがいじゃあない。そして女のいうとおり、こんな風景にはすこしの既視感もあった。
「迷路みたい」
 カップルの女がふるえる声でいった。
 おれたちは2人くらいが横にならべるくらいの幅の通路にいた。走ってきた方向も、これからむかう方向も、白く塗りこめられていてわかりやしない。ただなんとなく、全員がむいていたほうへじりじりと進みはじめた。先頭はおれ、そのあとにじいさんと女とガキ、おばさん、友人の名をつぶやきつづける女、しんがりが中年カップルだ。
「早すぎるんじゃないか」
 じいさんがおれの肘をぐいとひっぱる。迷路、という最初の印象とはうらはらに、通路はどこまでもまっすぐで、それだからおれは自然と早足になっていたようだ。
「うしろが付いてきていないようだ」
 じいさんごしには女とガキの二人連れしかみえなかった。女が不安そうにふりかえる。
「声は、していたんですけど」
 そのタイミングで、「ああ、よかった!」とおばさんが視界に現れた。
「まっすぐでよかったのよね? いつのまにか、前とも後ろとも離れちゃったみたいで……声が横のほうからきこえる気がして、曲がるところがあったのかもしれないって、こわかったのよう」
「あとの3人、はぐれたかもしれないってことか?」
 おれが言いおわるよりはやく、悲鳴がした。若い、高い声。たぶん10代の女のほうだ。
「いやっ!」
 小太りのおばさんが身を震わせたと思うと、その悲鳴からのがれるように走りだす。
「おい、あんた!」
「いかん!」
 じいさんの制止もおれの制止もふりきっておばさんが駆けていくから、しょうがなく追いかけるはめになった。そのあいまにも悲鳴と、そして夫婦の声が途切れ途切れに聞こえてくる。こっちの道はあいかわらずまっすぐだが、かれらはどこかに迷いこんでしまったのか。声はあちらこちらから聞こえる気がした。
「あなた、あなた、ああ」「そんな、まさか」「でも」「キミー、キミー」「信じられない」「いやああああ」
 どん、とぶつかった。おばさんが立ちどまっている。
「おい、怯えてんなら全員と行動しろよ」
 やれやれと腕をつかんだところで、おばさんの様子がおかしいのに気づいた。
 さきほどまで紅潮していた頬はまっしろに青褪め、おれの声などきこえていないかのように、くちびるを震わせている。視線の方向がみょうだった。おばさんは横を、右手の方向を見ている。
「おい?」
 つられて目をやっても、特に変わったところはない。どこまでも続く一本道のわきにそそりたつ、緑の壁だ。それなのにおばさんは、ふいに鋭く息を吸ったかと思うと、――――絶叫した。
 つづいて起こったことは、うまくことばにならない。
 おばさんはおれの手をふりはらい、いままで進んできた方向とはぎゃくに走りだした。じいさんをおしのけ、ガキの手をひいた女を押しのけ、――――おい、なんだってんだ!―――― おれもほかの3人も、彼女を追うように足を進めて。
 それから、おばさんは、なんだかみょうにゆっくりと、崩れ落ちた。
 そして崩れ落ちた女のからだは、地面につくかつかないかのところから――――消えていった。
 つまさき。膝。もも。手。腕。顔。
 まだ絶叫が空(くう)に反響しているかのような、ほんの数秒のできごと。
 小太りの女のからだは、おれたちの目のまえで、消えうせた。
 しばらく、だれの声も、息の音すらも、しなかった。
 そういえば若い女も中年カップルの声もしなくなっている。
 総毛立つような沈黙のなか、ふっと、空気が動いた。女が連れている、ガキだった。
「まがりかど」
 顔とおなじように、無感情な声。
「まがりかどで出会った」
「デイヴィッド?」
 女がつないだ手にぎゅっと力をいれるのがみえた。
「まがりかどを見つけたら、死者に出会う」
 ガキの声は、幼さとはうらはらの落ちつきに満ちていた。
「でも、死者に出会うものも、死者だから」
 ガキは真っ黒い目で女をみあげる。
「まっすぐ進んで。まがりかどを見つけなければ、帰れるから」
 そしてまた、無言。
 じいさんが手をこすりあわせながら、ふうっとおおきく息をついた。
「とにかくわしらは――――進まなきゃ、いけんってことだな」
 そろそろと身を寄せあい、おれたちは来た方向をもどりはじめる。まがりかど。ガキの声が耳に残っている。右手の方向を凝視していたおばさん。消えた女。真後ろではなく、あちこちからきこえてきた声。まがりかど。どんどん消えていく人間。死者。死者?
「なあおい」
 先頭がじいさん、最後尾がおれ。あいだに女と、ガキ。
「そいつはなんだ?」
 おれがガキをあごでしゃくってしめすと、女はきゅっと眉をしかめた。
「弟です」
「ずいぶんちいせえな」
「齢がだいぶ離れてるので――――」
「さっきのはなんだ?」
「おい、よさんか」
 ガキは自分の話をされているというのに、まったく興味をしめしていないようにみえる。また、苛々してくる。じいさんが足をとめておれを咎めるようにふりかえった。苛々はおさまらない。
「なんかわかったような口をききやがって――――」
 ひゅっ、と。自分ののどが音をたてた。
 じいさんの渋面、女のとまどった顔、ふりむこうともしないガキの後頭部。
 それ以外はただひたすら、まっすぐな、道。
 それだけしか、見えない、はずなのに。

 まがりかどだ。

 いつのまにか、じいさんの先に道はない。
 ここが行き止まり。
 おれの行き止まり。
 急激にからだがこわばる。こわばったまま、目だけをきろりと動かして、右手をみる。
 白い霧の中、道がつづいていた。
 まがりかど。
 おれの、まがりかど。そして、そこには――――
「うああああああああああああああああああっ!」
 自分ののどからひりだされたのは掠れきった声、そして目の端にとらえたのは、金髪をたかい位置で束ねた女のすがた、まがりかどに佇んでいて、おれに気づいてふりむいた、その顔は、ところどころ融けおちたように、おぞましい。
「あああああああああ」
 駆ける。いつのまにか駆けている。行き止まりだから、進めない。まがりかどには入れない。あれがいるから。追いかけてくるから。逃げなきゃいけないから。ああでも、足がもつれる、すべって、倒れこんで、あおむけに体勢をかえて――――
 それが、おれに、馬乗りになった。
 顔はわからない。わからないくらいに爛れている。口とおぼしき穴からは、なにかリズミカルな音がもれている。声。声か。女の服装はレオタードみたいだ。肌はところどころ黒ずんで、腐乱して、零れ落ちて。
 one,two,three,four,five,six,seven,eight.
 口ずさむ、それにききおぼえがあった。
 10代の若い頃、いっしょに暮らしていた女。
 TVのエクササイズ番組をみながら、せまいフロアで、画面のなかとおんなじに、一緒に脚をあげたり、腕をまわしたり。
「おまえ」
 崩れていた顔のなかに青い目がみえる。
「おまえ――――ジェシカ?」
 one,two,three,four,five,six,seven,eight.
 one,two,three,four,
 それは大きく口をあけ、おれの腹にむしゃぶりついた。
 肌が食い破られる。
 おれが、食いちぎられていく。
 ジェシカはおれの留守中に、オーバードーズを起こして死んだ。おれがアマンダと――――ジェシカの親友とセックスしている時間帯に死んだ。知っていたのだと、あとから日記を見てわかった。
 ジェシカの兄貴にはさんざんっぱら殴られた。アマンダを抱こうとしたら泣いて拒否された。むかついたから酒をあびるように飲んで、バイクを走らせて、ああ、それから――――
 ガキの声がよみがえる。
 死者に出会うものも、死者だから。
 ジェシカの口にくわえられたおれのハラワタが、勢いよく引きずりだされた。


   【ロバート】

「ああああああああああああああああああああああ」
 声は尾をひいて、来た道を駆け戻っていく。
 とっさにその背をとらえようと足を踏み出して、はっと気づく。
「だめだ!」
 おなじように追おうとしていた娘が――――メラニーといった――――目にいっぱいの恐怖をうかべてふりかえる。
「だめだ。追うんじゃない。きっと、かれは――――」
 メラニーはとっさの反応のように首をはげしくふり、だがくちびるをかんでうつむいた。そして、声をあげた。
「ディヴィッド!」
 現れたときから、しっかりとつながれていたはずの姉弟の手だが、いま、メラニーの手の先に、幼子のすがたはない。
「いや、なんで、デイヴィッド!」
 いちどは踏みとどまった道を、メラニーは駆けていく。追いかけて、腕をとらえた。
「むりだ。きっと、きみの弟も」
「だって。だって、まさか。そんな」
 メラニーの目に涙がうかぶ。あふれて流れる。
「手を、つないでいたのに」
 そう、つないでいたのだから、消えるはずはないのだ。
 本来ならば。
「デイヴィッド……」
 メラニーはぼうぜんとつぶやいて肩を落とす。そのほそい肩を、たたいてやる。
「きみの弟が教えてくれた。まっすぐに、進まないと」
 そして帰るのだ。
 自分たちは、帰らなければならない。
 ふたりで、ゆっくりと進むべき方向へ歩きだす。ずいぶんと長いあいだ、歩いた気がする。静かだ。とても、静かだった。
「このあたりには、なんの用事できたんだね?」
 かたく押し黙ったままの娘の気持ちをすこしでもほぐしてやりたくて、話をむける。
「え? ああ、すみません、なんて?」
「うん。このあたりに、なんの用事があってきたのだろうと」
「ああ――――」
 メラニーはちょっと眉根をよせた。
「だめね。なんだかぼんやりしていて思い出せない……ああ、そう、仕事のことで。現地で車をかりて、約束した場所までいかなきゃいけなくて、ナビだとまっすぐ行けるはずなのに、なにか、地元のひとだかに回り道するように言われて――――」
「おや」
 きゅうに、霧が薄れた気がする。せまい一本道だったさきが、見渡せるようになっていて――――
「きみの車じゃないかね?」
 メラニーはおどろいたように声をあげた。
「ほんとうだわ」
「やれやれ、どうやら戻れるようだな」
「ええ……、ええ。ああ、デイヴィッドがさきに待っているかもしれない!」
 顔をかがやかせて、メラニーは進んでいくが、その希望はかなえられないのではないかと思った。きっと彼女の弟は、自分たちが迷いこんだこの霧の迷路からぬけだすために、使わされたものだったのではないか。
 車がおぼろげにかたちをとりはじめる。もうほんの数メートルだ。
 メラニーの後姿を見ながら、ふっと惹かれるようにふりむいた。
 進んできた道の、左手に―――― まがりかどが、あった。
 立ちどまって、目をこらす。そのさきに道に、だれかが立っている。白い霧は、どこかふんわりと、金色(こんじき)を帯びはじめている気がする。
「……おお」
 だれが立っているのかわかった瞬間、迷いなく足が進んだ。
「こんなとこに居たのかね」
 ミルドレッドが――――妻が、ふっくらとした頬に笑みをうかべている。
「いま行くよ」
 気づいたらはだしのようだった。足元にはしっとりと露に濡れた草。ミルドレッドはほほえんでいる。金色のかがやきがあたたかく包み込んでくれるのを感じて、自分の顔にも笑みがこぼれるのがわかった。


   【デイヴィッド】

 助手席にのりこんだ彼女は、車を発進させるとからだを大きく震わせ、そしてこちらを見た。
「だ――――だれ?」
 たぶんききたいことは山ほどあったろう。彼女はその質問を最初に選んだようだ。
「地元民の忠告はきくものだ、メラニー・スペンサーさん」
 ダッシュボードの免許証は確認済みだ。メラニーはぶるるっと首をふった。車はゆっくりと森をあとにする。
「……デイヴィッド?」
「そう」
 みじかく答えて、ハンドルをきる。
「きみに弟はいない」
 ひさしぶりの、仕事だった。
 国道の【国境】につめている仲間から、車が一台そっちにいった、と報告をうけたのは、かなりぎりぎりのタイミングだった。
「回り道するようには?」
「当然いったよ、でもあの女、聞く耳もたねーの。ナビがどうこういって。最後にはジャンたちをふりきって突破しやがったんだぜ?」
「連絡が遅れた理由は?」
「追っかけたんだよ、あんたにめんどうかかんねえように」
「心遣いはありがたいが、つぎから即座に報告をくれ」
 通話をおえて小屋をとびだす。車のヘッドライトがみえて、舌打ちした。もう、はまっている。
 それでも車から降りていなければ、方法はある。足早に近づいて、助手席に乗りこんだ。ドアを閉じる音で、女はまばたきをして、いままで車を走らせていた様子ではっとブレーキを踏んだ。
「外に――――出てみなきゃ」
 そういって、彼女はそのときはじめて、おれを見た。
「子どものすがたをとるのがいちばんいいんだ。警戒されない。子どもは、死の世界にちかいから」
「警戒……?」
「まああまり、気にしなくてもいい。きみが望めば話すけれども、たぶんそのうち忘れてしまう」
 森は、むかしから死者の迷路とよばれていた。
 もうずっとそうだ。だれかがそれに気づき、【国境】を設定した。そもそも辺境の土地だから、よそものはめったにそこまで入りこまない。たまにやってくる旅行者は、だいたい道に迷っているだけだ。それでもたまに、目的をもって森を通る道を進もうとするものがいる。それを別の道に誘導するのが、【国境】に詰めている仲間の役割だ。【国境】を突破してしまった場合の、最後のボーダーを守るのが、おれだった。
「まあ本来、生きてる者に害はないはずなんだ。まがりかどに出会うのは、死者ばかりだから」
 森は悪意をもたない。ただ彷徨う死者たちに道をしめすだけだ。
「でもたまに、死者のほうで引きずりこもうとすることだってあるから」
 おれのような役割ができたのは、最初は偶然だったらしい。まがりかどに引きずりこまれて、それでもどうにか道に戻れたものがいた。初代のかれは、死者の迷路の案内人たる資格を得た。
「はやい話、いっかい死んだものは、あの森にはいっても正気でいられる」
 そうやって代々、つたえられてきたのだ。
「それであんたは、なんの仕事でこんなとこまで?」
 それまでぼんやりと、話をきいているかもわからなかったメラニーは、ふいに笑いはじめた。
「おい」
「ごめんなさい、だいじょうぶ。そう、たぶん、だいじょうぶ……」
 すこしばかりヒステリックな笑いをひとしきりもらしたあと、彼女は大きく息をつく。
「駆けだしのライターなのよ。仮契約をむすんでる雑誌社から、なんでもいいからネタを用意してこいって言われたの。行く予定だったのは***って人のとこ。――――臨死体験の経験者よ」
 おれはかるく眉をあげる。【国境】が近づいてきた。
「それはそれは」
「でもたぶん、この森とはちがう話でしょうね。お決まりの、病院でみた夢のことやなにやよ。ねえ私、ここのことを忘れてしまうの?」
「そうだな。たぶん、ここでの記憶はここから離れると薄らぐようだ。ここの出身者も、よそへ行くとおぼろげにしか――――森に近づくなってことしか、覚えていない。帰ってくると思いだす」
 メラニーを見やると、彼女もこちらを見ていた。
「念のためにいっておくが、記事にはしないでもらいたい」
「そうね、残念だけど」
 忘れてしまうのでしょうね、とメラニーがいった。
「でも、ありがとう、助けてくれて」
 おれたちは、もうすぐ【国境】にたどりつく。



(2013/01/05) ええ、おなかを食い破られたんですよ。