お城


 まっさらに清浄な土地に立つ。
 風ばかりがびょうびょう吹いて、あたしの叫びをうばってく。
 だれかあたしを抱きしめて、抱きしめてあたためて絞め殺せ。

  ◆

 花粉症を苦に自殺した父の命日には、窒息させてくれるものが欲しくて飢餓状態になる。なにかに思いきり噛みついて口のなかを充たしたくなる。たいていそれは男のからだで、あたしはみっしりした肩口を食むのが好きだった。
「去年はそれで警察呼ばれたんでしょう」
 マサキはそういって、やんわりとあたしを押しかえした。彼の褐色の肌を喰らわんとしていたあたしの口は、餌をねだる雛のようにあけっぱなし。腹立たしいので音をたててぱっくんと閉じたら、虫歯1本もないじょうぶな歯が上下にがっちんとあわさって、それがけっこう痛かった。
「きみ、たぶんばかでしょう」
 枕に苦悶した顔をうずめてかくすあたしの髪をなぜながら、マサキは失礼なことをさらりという。でもそのあとで、くすりゆびを噛ませてくれた。うっかり全力で噛んだらちぎれそうなくらい細いものだけど、マサキの指だからよしとする。男の肌は苦いということを、あたしはもう知っている。
 マサキとは今年にはいって知り合った。毎晩でもいっしょのベッドで寝てくれるひと。それが毎晩といかないのは、マサキにちいさな女の子がいるからで、その子にあたしは逢ったことがない。彼女はマサキの花嫁だ。その子が16になるころには、あたしもマサキも30を越す。それまでにこの飢餓から解放されていればいいと思う。
 その夜マサキを抱きしめながら、あと9年残された幸福な時間をおしんで泣いた。

  ◆

 がっちゃんと、盛大にティーセットを落っことした。マサキはあわてずさわがす、ただ情けない笑顔をうかべて立っている。
「それ、どうゆうこと」
 破片がくるくると宙を飛び、マサキの足元へ散っている。マサキは踏まないようにそろりと踏みだして、あたしのそばまできた。
「どうゆう、こと」
「うん。だからね、彼女にはほかに男ができたんだ」
 赤いランドセルしょいたてのマサキの彼女は、公園で知り合ったおじいさんにひとめぼれしたらしい。
「ぼくのこともまだ好きだけど、そのひとはぼくよりずうっと老い先短いんだ。だからそのあいだずっとついていてあげたいんだって。そういわれた」
 あたしはなんだか泣きそうだ。
「だってそれじゃあ、マサキはふられたんじゃない」
「うん」
 あんまりすなおにマサキがうなづくもんだから、あたしはティーセットの残骸につっぷしておいおい泣いた。マサキを哀れんで泣いた。
 哀れまれたマサキのほうは、終始へにゃらとした笑顔をうかべたままで、あたしはますます泣けてくるのだった。

  ◆

 父の自殺の原因は、花粉症を理由に母に離婚届をつきつけられたことだ。
 あたしはマサキが父の二の舞にならないかとあやぶみ、というよりむしろ決めこんで、毎晩マサキといっしょに眠った。マサキはいつも笑っていたけどやはりそうとう堪えたらしく、血迷って何度かあたしを抱こうとした。あたしはマサキの異常行動にますます恐怖をおぼえ、いちにちじゅう彼を抱きしめて離さないのだった。
 そんな日々がしばらくつづき、やがてあたしは父の命日をすぎてしまったことをしった。飢餓感はさっぱりおとずれなかった。マサキのことでいそがしすぎたせいだ。
 そのことをだいぶ落ちついてきたマサキに話すと、マサキははじめごめんといって、まちがえたおめでとう、といいなおした。ひどくさみしそうに。
「じゃあもう、ぼくはいらないのかな」
 そんなことを遠い目でいうものだから、あたしは恐慌寸前だ。
「だめよマサキ。あたしにはまだ、マサキが必要」
 死を思いとどまらせようといいつのりながら、なぜ必要なのだろうとかんがえた。かんがえながら、なぜマサキはあたしに必要とされたいのだろうと疑問を感じた。
「ねえ」
 ねえ、とマサキはあたしをよぶ。
「ねえ、ぼくはやけっぱちでもなんでもなくて、ただカヤノとセックスしたいだけなんだ」
 マサキにいわれて、あたしの目のまえでぱちんとなにかがはじけ、気絶しそうになった。
「失恋したてじゃなかったの」
「もう3ヶ月も経つんだよ」
「たかが3ヶ月じゃないの」
「場合によっては3ヶ月でもじゅうぶんすぎるんだよ」
 カヤノを抱いてみたい、とマサキはいった。
 あたしはほんとうに気絶しようと思ったのだけど、タイミングを逃してしまったので、あきらめて承知した。

  ◆

 マサキとのセックスはふわふわととりとめがない。あたしはなぜこんなことになっているのかと、昼も夜もマサキと寝る生活に突入してからもかんがえた。そうしてある日すとんと腑におちた。それはマサキが目覚し時計をセットしながらくしゃみをした夜だった。
「マサキ」
 あたしが呼ぶと、マサキはすぐさま腕をのばして抱きついてくる。あたしにくすりゆびをあてがいながら、髪をなぜる。あたしはもう、野獣のように歯をたてたりしない。ときおり舌をそよがせながら味わって、これがひどく愛撫に似ているのだと気づく。
「もう、9年さきをかんがえないでいいのね」
 もちろん、とマサキは笑った。笑って髪をなんどもなぜる。
「きみ、たぶんばかでしょう」
 9年後のマサキの不在を思って泣かなくてすむのだと、そう理解して、あたしは泣いた。具体的な期限のない幸福への莫大なる不安と歓喜。泣きながら失礼な言い草のマサキを抱きしめて、ぎゅうぎゅう抱きしめながら窒息してしまえと願った。

  ◆

 マサキは、真城。
 まっさらに清浄な荒野に築かれた、あたしのお城。


(2002/11/24)