姫君<1>


 うわあん、というその泣き声が教室にひびきわたったのは帰りのSHRまえのざわついた時間で、席につかず窓わくにもたれながら眠気におそわれていたわたしは、おどろいた拍子にあくびを呑みこんでしまった。
 うわあん、という非人間的な発声を披露した瞬太は、でかい図体をすばやくひるがえしてうしろの扉から駆けてった。ちょうどそこらでじゃれあっていた男子が危うく轢かれる勢いだった。
 わたしは、「うわあん」と泣く人間の実在と、しかもそれが口にしたのが180cmの老け顔の工藤瞬太である、という事実に感動してしばし立ちすくんだ。それから、さっき呑みこんだあくびをあらためてした。
 瞬太を「うわあん」と泣かせしめた陶子は、憮然として教室中の注目をあつめていた。
「どうしたの」
 陶子の親友という立場を自負しているわたしは、自分のためというより周囲へ説明をきかせるため声をかけた。陶子は困惑したようにきれいな顔をくもらせている。
 うむ、と陶子はうなづいた。わからん、とつぶやいた。
「こんどの日曜に映画を観にいこうと誘われたけど、こんどの日曜にはきみとの予定がはいっているから断りをいれた。そしたら泣いて走っていってしまった」
 陶子はメンソレータムしか塗ったことのない無垢なくちびるで、泣かれても走られてもこまるのだ、としめくくった。わたしは遠慮なく大笑いした。
「映画は瞬太と行ってきなよ。買い物は土曜の放課後行こう。あたしと先約があっても、ふりかえ可能なら瞬太のほう優先させてあげて」
 それがつきあってる同士の礼儀だよ、というと、礼儀とか礼節とかいう単語に過敏な神経をもっている陶子はぴんと背筋をのばした。ほんとうは、先約を優先させるのが理に叶ってると思うけど、なにもしない陶子と極端にひかえめな瞬太の場合だ。瞬太の断られて「うわあん」と泣きだすほどの勇気を無碍にはできまい。
「しかし泣かれても走られてもこまるのだ。あれじゃ、あとがつづかない」
 陶子がしつこくそんなことをいうので、さらに笑いながら背をたたいてやった。
「じゃあ陶子がつづけてやんなきゃ。こうゆうときは、追いかけていって抱きしめて慰めるのが定石」
 そうか定石か、とすなおに納得した陶子は、ふいにわたしをみあげて、にやり、と笑った。
「ならば行こう」
 そういいおくと、クラスの喝采をうけながらながい黒髪をひるがえらせて教室を駆けだしていく。どこにいるかわかるの、と声をかけようとして、思いとどまった。ふたりは、ちゃんとSHRがはじまる直前に帰ってきた。泣きはらした目の瞬太が陶子に手をひかれるかたちで。
 そしてわたしは、そういうふたりがだいすきなのだった。


(2003/02/16)