姫君<2>


 たまねぎのみじんぎりで泣かないやつは人間じゃない、と彼方はいう。彼女のいいぶんでは、わたしは人間ではないということになる。
「うそッ。陶子、目にしみないの」
 しみない、と応えたら、彼方はうひゃーと奇声をあげて、信じられないから実例をみせろとせまった。それでその日はうちに泊まりにきて、わたしがたまねぎをきざむようすを目をらんらんとさせて観察していた。
「陶子ってば」
 彼方は驚愕をあらわにし、いやーさすがは陶子ちゃん、などといって大笑いしながらわたしの背中をばしばしたたいた。わたしがきざんたたまねぎは、母親の手でその他もろもろの食材とかけあわされグラタンになった。彼方はそれをうまいうまいとたいらげた。けっきょくわたしが人間だと認定されたのかどうかは、聞きそびれた。
 どうしてそんなことを思いだしているのだろう。
 わたしはぽつんと駅のホームに立っている。さっきから電車が何本もはいってきてはでていって、そのたびわきおこる風にわたしのながい髪が乱れる。さぞかしまのぬけた風景だと思う。
 そしてじっさい、いまの自分は男にふられたまぬけな存在なのだ、と思った。
 瞬太がどうしてその結論にいたったのかはわからない。
 いとしいと思った。そばにいてくれればしあわせだった。なのに瞬太は、さよならをいう。けっきょく陶子は自分のことばかりで、おれのこと考えてなんかいないじゃないか、という。
 別れを告げられて、そうか、とうなづいたのがいけなかったのかもしれない。そのあと激昂した瞬太に泣いてすがらなかったのもいけなかったのかもしれない。
 でもわたしには、できなかったのだ。
 好きな男がはなれていこうとしているときに、取りみだし泣きわめき、わたしはまだ好きだと叫ぶ。たったそれだけのことが、できなかったのだ。
 それが、自分のことしか考えていないということなのかどうか、わたしにはわからない。瞬太がしろというのなら、わたしは土下座でもなんでもできた。瞬太がいえというのなら、捨てないでくださいということだってできた。わたしにプライドというものがあるのかどうか、かんがえてみたことはない。ただ瞬太が望むなら、瞬太の好きなようにしてやりたいと思っただけだったのだ。
 まちがえた。
 わたしは決定的にまちがえたけれど、それを瞬太に伝える機会はもうない。ひょっとしたら、今夜電話をすれば瞬太は話をきいてくれるかもしれない。でも自分がそうしないことを知っていた。
 何度なじられようと、わたしにはたぶんできないのだ。
 自分から相手をいとおしむことが、どうしてもできないのだ。
 わたしはからだがつめたくなるまで電車がおこす風にふかれ、それからようやく家に帰った。がらんとした我が家に、そういえばきょうは母親がいないのだったと気づく。単身赴任している父のもとへいっているのだ。
 台所をあさって、カレーならつくれそうだとふんだ。
 たまねぎをきざんでいたら涙がでた。
 あした彼方に、瞬太を失ったことを話すだろう。
 それから、自分がたしかに人間だったことも話そう。
 彼方はきっとこまったように眉をしかめて、大好きだったわたしたちふたりのために泣くだろう。


(2003/09/29)