2010年5月


1日(土)
今夜のアーデルハイト:ごはんは9時までに食べおえたもので強制終了、急須を割り「もう寝る」とつぶやいたあと玄関から外へ出ていき庭をうろついてからもどってきた。11時になるがまだ寝ていない。

きょう午後、父用に携帯電話を購入してきました。なにかあるたびに、持たせたほうがいいのだろうか、しかし持たせたところでなにも起こらないではないか、ということで見送りになってきましたが、「かかってきた電話にでる」ことくらいは可能と判断し購入にふみきった次第です。ちなみに「かかってきた電話をきる」ことはやや難しいと思われます。いちおう母の携帯からGPSで位置検索もできるようにしてみたので、連休中に動作確認を兼ねてちょっと遊んでみようと思う。

そんなわけで連休もあっというまに半分さしかかっていましてよ。


2日(日)
本日のアーデルハイト:ポケットにティッシュとさやえんどうをいれたまま洗濯機にいれないで! チネッテにいいつければちゃんとチェックしてからまわすのに! しかしアーデルハイトは1日に複数回お着替えを敢行して自分で洗濯機をまわすので、どうしても避けられない事態なのであります。どうしていつもさやえんどうなのかしら。いれやすいからかしら。さすがにトマトがでてきたことはまだない。

ところで休日のわたくしは、母に起こされて返事してあまつさえ会話までしておきながら、数分おけばそのまま何度でも眠りの海へたゆとうことができます。できますっていうか原因は明白でおふとんから這いだしていないからなんですが、そもそも「這いだせない」ことがこのおふとんのもつ魔力ではないのかしら。事実「きょうは起きてもらう!」とへやにはいってふとんに座って声をかけているうちに、母もいつのまにか意識をうしなっていたくらいですから。「きみが起きないのはこのふとんが原因だ……!」といいながらなんとか這いだした自分といれかわりに、母が昼寝にひきずりこまれていったくらいですから。そんなわけで家いちばんのせんべいふとんなんですけれども。あとシーツの擦り切れるはやさが群をぬいています。そんな魅惑のおふとんとん。

まあようするに、父とばあちゃんの侵略から逃れていられるのが現在このへやだけなので、そのふとんのうえはさらに気が楽になるってことではないかと思うんです。自分のミスだけど階下のテーブルにだしっぱなしだった鏡をアーデルハイトに汚されちゃったぜ。ふとんにくるまって寝るぜ。


3日(月)
母と一月半ぶりに祖母宅へ参りました。だれも倒れてないし虫もわいてないし差し押さえされてないし、一月半放置でこれなら上々でない。

しかしここの世帯のいちばんの問題、老齢かつ国民年金受給のみの祖母ではなく、病人かつ現役で働いている叔父のがさきに倒れてしまうんでないという点は、こちらがどうがんばってみてもいかんともしがたいのである。なのであまりがんばらないでいいと思うんである。つぎは二ヶ月後にいけばいいのである。そのころ叔父がまた検査入院でカテーテルぶっさしたりしてそうである。ところで手術前にわたされる同意書という名のむちゃぶり(手術をするとこれこれこんなことが起こっていまより悪くなるかもしれません、さらにはここに書いていないことだって起こるかもしれません、手術の最中これこれこんなことが起こると最悪死にますけど、サインよろしく)は、なかなか読みごたえありますよね。

というわけで、祖母宅へ行くとなんだかむしょうに肉が食いたくなるんです。お昼はふらんす亭で食べました。あと『トリコ』既刊9巻をきょうでぜんぶ揃えおえました。いまはむしょうにポップコーンが食いたい。


4日(火)
春がなかった。冬のあと初夏がきた。しかしきょうは盛夏にちかいのではなかろうか。秋冬→春夏の完全衣替えはきのう済ませたのですが、はやくも服をえらぶのがめんどうくさい気温だった。

さてさて都内に足をのばせず一本も映画を観ないまま終わっていきそうな連休ですが、あのう、「タイタンの戦い」にマッツ・ミケルセンがでています。なんっでよりによってこんなちょうみる気がしねえ映画に出演しているんだマッツ。これはジェレミー・アイアンズin「エラゴン」に優る。「タイタンの戦い」にマッツ・ミケルセンがでています。ど、どうしろと。

しかしとにかく空気がぬくい。やたら塩気のあるチーズを食べつつ酒を飲んだのであたまもぬくい。


5日(水)
きょうもぬくい。塩気が恋しいのは汗をかいているからでしょうか。

アーデルハイトはきのう花瓶に活けた枝をちょきちょき剪定していましたが、最終的に全部を切り刻んでごみばこ行きになっていました。いったいなにがしたかったのだろうか。そして水だけのこった花瓶をうやうやしく別の場所に移動させていたので、あとで水だけ捨てておきました。

家のお金について若干不穏な発言があるので、めんどうくさい。どうも一家4人がひとつき1万くらいで暮らせるとでも思っているらしいんだぜ。

さてまあ、終わってみれば家の用事をいろいろ済ませることのできた連休でした。たっぷり寝たし。あすからまた通常運転でのんべんだらりといたします。


6日(木)
駅のホームに落し物がありました。女性もののベルト。バックル部分に突起がひとつついててそれでぱこっと留めるやつ。えーっと、「太めベルトでウェストマークして今年風バランス!」みたいなベルト。それがのべーっとホームにのびていた。

で、みっつ並んだ椅子のいちばんはじの席の足元にのびていまして、なんだこりゃあと思いながらも電車がくるまで8分あるので、ベルトからいちばん離れた席に腰をおろしました。しばらくして女の人がひとり、早足で椅子にちかづいてきて、あ、どうするのかな、自分がこっちのはしに座ってるからひとつあけて座りたいだろうけど、その足元にベルトがとぐろ巻いてるもんな、と思っておりましたら。

やってきた女性はほんのかすかに鼻を鳴らしてずがん!と当の席にすわり、そのあとヒールでそのベルトをひっかけて横にざくっと押しやり、そのときバックルがホームに擦れてかしょーんと鳴ったのがかっこよかった、そんな帰り道。

でもどうしてベルトが落ちているのだろうか。


7日(金)
朝のニュースで「お母さんにきいた『母の日』に贈られてうれしいものベスト3」なんてことやっていたのですが、最初からオープンだった第3位は「お花」、メインの内容となった第2位は「家族とすごす時間」であり、「さて1位はなんでしょう〜?」というノリで、そりゃあれだろ、「当日の家事すべて代行」に決まってんだろ、と思っていたらなんと「気持ち・愛情」というおそるべき結果で落として、そのコーナーは終了しました。

世の中のお母さんはそんなに無欲でいいんだろうか!

むしろ第2位も「ひとりになれる時間」じゃないのがおどろきですが、ああそうか、家族とすごす時間のほうが稀少な立場のお母さんもいるな。まだそっちの数のほうが多いのかな。あと第1位の結果だって、毎日毎日毎日毎日労働してるのにそんなのあたりまえだと思われてあまつさえたいしたことしてないとすら思われててちっとも感謝されることがないわあああっというお母さんたちの怨念なのかもしれない。

でも家事家政が苦にならないって人もいるだろうからな。

そんなことを、他人のめんどうをみるのはまさしくめんどうだと感じる自分がつらつらとかんがえた日であることよ。つらつらといえば昨夜はつらつら考えすぎて目がどんどん冴えてきてまんまと夜更かしをしてしまいました。自分にはもうオタクとしての若さがないなあとかかんがえていたんだけれど、それはべつにオタクとしてではなく生物としての瞬発力がなくなってきているってことかもしれないとか思ったり、やはり10代後半〜20代前半がいちばんしゃかりきに動ける時期なのであるなあとか、まあそんなかんじにつらつらしつづけたらいいぐあいに眠くなったのだった。ぷう。

きょう帰宅したところあたらしく玄関にかざってあった、フリージアとチューリップとあとセキチクだかなんだかわからないお花はバランスもよくとても愛らしかったのですが、それを誉めるとアーデルハイトが図にのるのでいわない。そしてやはりいわないでよかった、居間はなんだかよくわからないものがもさもさと飾られていて正気の沙汰ではなかった。


8日(土)
本日のばあちゃんと父のばんごはんはカレー。ばあちゃんのへやに膳を下げにいって薬を飲んでもらおうと思ったら、水飲み用のうつわにはなにかこう、ごちゃっと生ゴミが作成されていて、まあいいや、お茶をもってきたこの湯のみでと思ったら、おへやのポットに水がきれていたので、ひとまずお薬(分封されてる)を置いて膳とポットをさげて、水をいれて戻ってきたらば、ばあちゃんが薬の袋をていねいにたたんでいるんである。中味がないのである。え、薬は?といったら「こんなかや」と口をあけたけれども、え、舌の下にでもいれてんですか、みえないんですけど。とはいっても薬を飲むのをいやがったり、隠したりしたことはまったくないので、たぶん口腔のどこかにあるんだろうと思って水をわたしましたけれど。はて。

ばあちゃんと父の、とかいたのは、母と自分はラーメンを食べたからです。買いもの時、なんかむしょうに食べたくなったの。行列のできる店のラーメン(スープ:こってりしょうゆ)。もやしは冷蔵庫にあるというのでじゃあほうれんそうもいれようと思ったら売り切れになってたので小松菜を、あと「広告の品」になってた煮玉子&チャーシューがあったので買い、ばあちゃんらに用意をしてから台所で調理。といっても自分はなにもしていないんですが。事前にどんぶりをあっためておくなんて小技しらないよ! んで、すてきにできあがったラーメンをそのまま台所の床で母と食べました。なんで床かっていうと調理台はひとり用のテーブルになるだけの面積しかないので。しかしどんぶりを片手でもちあげるのがたいへんなので、ふたりして非常な猫背。台所の引き戸をあけたら母娘が床においたどんぶりからラーメンをすすっているという、そういう光景なわけで、天井のすみっこにカメラがあって撮影していたとしたら、以下のナレーションがはいるはずである。

「この家の問題点は……介護者と被介護者の生活範囲が区切られていないこと。思うように調えられない、調えても荒らされるばかりの家のなか、かろうじて自由になるのはこの台所と娘さんのへやのみなのです」。まあ台所もいろいろと危険なんだけどね! ほんとにね、いつかやるといいと思う、「介護者と被介護者の生活圏を完全に分断・独立させる家」。団欒スペース(居間とか)いらんっつうの。

ところできょう日中は母と「ナイン 9番目の奇妙な人形」を観てきました。ボロミア! ボロミア!!


9日(日)
母の日なわけですが。

父がまあ毎度のごとくやらかして、リミットブレイクした母がわたしのへやに駆けこんできまして、ゆうべ飲みほしてそこらにほうっておいたカラのペットボトルでぽっくんぽっくんと、なかなかにぎやかなパーカッションを。んで自分はなにをしていたかというと、二度寝どころか三度寝四度寝のまっさいちゅうだったわけですが、リミットブレイクの気配でいちおう起きていたのでパーカッションをぼへーっと見ながら事情はわからねどとりあえず階下へいって父に蹴りいれてきたほうがいいのかしらどうなのかしら、と思ったり。

きょうは自治会の掃除&消火訓練がすぐとなりの公園であったりして、とうぜん父は参加せず母が参加してきたわけですが、「火事だー」と叫ぶれんしゅうをみなさま思い思いの声量で行っていまして、こればあちゃんの耳にとどいたらやっかいかしらどうかしらとも思いながら三度寝四度寝をしていたわけですが、掃除ってようは除草なんですけど、それが毎回自称草木を愛する父に不評なわけで、そこらへんの衝突なのかしらと思ったらそうではなかったんですが、とりあえず一階におりて母がかけっぱなしだったコンロの火をとめて(火事だー)、と引き戸をしめたむこうの居間から、なにやら弁明するような父のつぶやきがきこえてくるんですがあなた、それをいうべきあいてはわたしじゃなくて二階でペットボトルを鳴らしている。

でも怒りを発散できるのは健全なのでいいと思うのです。自分はすっかり父へ怒らなくなってしまって、そのかわり年に1回くらいおとずれるリミットブレイクはこれはもう怒りというよりは瞬間的に噴出する「どっか消えろ」という殺意というほど相手に執着してない感情なわけで、父よりは母が怯えてしまうという欠陥があるのであった。しかしこの件があったのは昼すぎなのですが、その後の父はけっこうおとなしく夕飯もさくさく食べてくれてきちんとはやく寝てくれそうなので、なんだよやればできるじゃん的な思いにかられつつ、自分と母はひさしぶりにTVを観ている。

3D映画というものがわりとあっさりはじまって、いい点といえば同時上映で2Dだってあるわけで、だいたい上映時間が2時間きっているのですよね。みじかい映画はとてもいい。や、長くてもいいものや、長くてはいけないものもあるけれど、おなじくらい「いい!」と思った映画に優劣をつけるならみじかいほうに決まってる。そしてこの「3D映像」というものが、過去の映像作品にも適用できるのだとしたら、そして映像内に自分がはいっていける、そんな体感ができるようになるのなら、大好きなミュージックビデオのなかにはいって群舞に参加したいなあ、自分が死ぬまでにはそんなんなってないかしら、とか思うのです。


10日(月)
べつに駅からちょっと遠くてもいいし、築10年とかでもいいや、できれば畳のへやがいい、とページを繰っていって、ひとつ家賃もお安いいいかんじのものがあったのですが、おすすめポイントに「木の下ガールにぴったりの物件」とあったので、なんかいやな売り文句だなあと思いました。あ、夢の話。

「木の下ガール」は「木の下にいそうな女の子」なので、べつに森にいそうでなくとも、たとえばサバンナにいっぽん生える木の下にいそうなのでも、ぜんぜんかまわないんだぜ。この木なんの木の下にいそうな女の子でもいいんだぜ。けっこうバリエーションありそうだな、木の下ガール。

あああいま猛烈に眠い、からだが痛むほど眠い、ので、2時間まえにさっさと寝ておかなかった自分を後悔しているジャスト24時。


11日(火)
自分の毛穴は開き毛穴ではなくてシミ毛穴ではないかな?と思いついたのだけれど、だからってどうできるわけでもないような、ぶっちゃけ複合毛穴ならばどうすればいいのだろうかと、「毛穴別ケア」とか読みながらうすぼんやりしている。毛穴の非常事態宣言ってすごい文言。

きのうから買いものがしたい気分です。買いものってなにかを自分のものにしたい所有欲と、なんでもいいからお金を使いたい、なんていうのか消費欲?の両方に支えられているものだと思うんですが、いまの気分はバランスを欠いて圧倒的に後者。ものがほしいんじゃない。お金を使いたいんだ。なにをいっているのだ自分は給料日まえに。とりあえず6月がお買いもの月なのでそれまで脳内ショッピングをして気をまぎらわせようと思いますが、ああ、文房具、というか紙もの、というか、ゴミ。ここらへんは買いもの月を設定していないので、今月中にうっかりするとうっかりするな。というかじつはもううっかりしている。きょうもサイズいろいろな封筒がどっちゃりとどいたよ! ゴミだ! これはただのゴミだ! しかし心躍るゴミだ!

あすは母の出勤日なので、ばあちゃんをディに送りだしたらのんべんだらりとする予定です。あんまりゴミゴミいってると態度がよろしくない気もするので、使えるゴミにしたりして遊ぼうかと思います。うんまあ、捨てる時期が変化するだけでなにものもゴミだよ。一時期、小学校の夏休みの宿題は「リサイクル」と銘打ちゴミを加工してゴミをつくるのが評価されていた気がするけれども、いまはどうなんでしょう。


12日(水)
- - -


13日(木)
きのう父が「これやろうと思ってたんだけれど、きょうはもう疲れた」と示した紙には、なんでしょう、「窓」「本」「本だな」「ひもでOK」「こちらに倒れる」「頭をうってしんだらだめ」という文字とともに、居間の家具の配置換え計画? 自分が使いやすくするためのアレンジ案? なのかもしれないものがひょろひょろと描かれておりまして、「忘れないようにそこにはっておく」と電気スイッチのちかくにそんなものをはられてしまった母娘を落ちつかない気分にさせたのでございます。落ちつかない気分とかいいながら気づけば寝ていて12時にいっかい起きてまた寝た、そんな夜でございましたけれども。

で、本日職場のひるやすみに「なにかリフォームははじまっているか?」と母に戦況を尋ねたところ、「なにも起こっていない、紙のことも忘れているようなのでこっそりはがしておいた」との返信があり、ひとまずつつがなく一日が過ぎたようです。あ、ばあちゃんがあいかわらず食欲の権化と化していて、母を慄かせていたようですが。今年にはいっていちど「さいきん太ってきたから、食事をひかえる」と宣言されたのですが、先月「わたし痩せてきたな!」とうれしそうにおっしゃって、もとのもくあみ。ぶっちゃけ家の女どものなかでいちばん肥えていらっしゃるのですが。母+2s=わたし+10s=ばあちゃん、なんですが。

そもそもずっとからだも弱くて、働かざるもの食うべからずな風潮のなか、病気がちなせいでいやな思いをしたことがあるそうで、同居当初はたいそう痩せてらっしゃいました。それがここにきてしあわせ太り。もともと華奢な体格にお肉がででんがでんとついていって、すっかり妊婦さん体型です。かわいらしいのでいいんですけど、まあちょっと、膝も悪いのにこの体重は……と思わないでもないけれども、だからって食事制限なんていまさらかわいそうすぎる。ので、食べなさい好きなだけの心境ですが、たまにちょっと引くくらい攻撃的に食べるんですよねこれが。食欲とは生命欲であることよ。

自分は朝もりもり、昼もりもりと食べたら順調に夕方ぺこぺこ、になったんですけれども、帰宅したころにはぺこぺこが落ちついて、ひさしぶりに夕食を食べずに寝る予定です。四月は外食べが続いてしまったけれども、本来なら夜は食べる時間をおしんで寝るべきだと思うんだよね、自分は。うん。


14日(金)
二度寝でみた夢のせいと思うけれども、起きたらがっきがきにからだが強張っていて痛かった。

コンサートの野外会場らしきところで並んで列をつくっていたら将棋倒しがおきて、必死でふんばって押し戻して、どうにか観光バスに乗ったらそれがぐんぐん高度をあげていって巨大ショッピングモールの屋上にある託児所について、土足ですみませんとそのなかをぬけたら首つろうとしている人がいたので背後からとめようとしたらそれが罠で、顔面つかまれて土の上に後頭部ごーりごり押しつけられた、体感と視界は攻撃されているほうなんだけれど、思考は攻撃しているほうのもので、あーこいつまだ若いな涙目だなずいぶん怯えてんな見逃してやろうかなーとかんがえていた。そんな夢。がっきがき。

んで、仕事はわりといそがしくなく済んで、きのうより早めに退勤したのだけれどビルをでたとたんなにかこう、スイッチが切れたというかはいったというか、なんかむしょうにしゅるしゅるしぼんでいってしまいそうな気になったので、なんだろうこれと思いながら本屋にいって本を買ってフードコートはいってラーメン食べて、喫茶店はいってコーヒー飲みながら買った本読んでたら落ちついた。

たぶん寒かったんだと思うのよね。


15日(土)
夕方遅く、父が庭仕事をきりあげて居間のはきだし窓からへやにあがるとき、動きが遅いのでふつうにへやが明るいと虫がひょいひょいはいってきてしまいます。なので春夏の時期は居間のあかりを落としているんですけれども、その状態で買いものにいって、ちょっと遅くなり7時まえに帰ってきたら、さきにはいった母がうすぐらいへやのなかでお団子をむさぼりくらうばあちゃんと遭遇して腰をぬかしそうになっていた。

きょうはおやつを用意していなかったので、まあそりゃあ、おなかもへるわ、へやから降りてきちゃうわ、その場にあったもの食べちゃうわ、という感じなんですけど、なんかじゃっかん不安定ばあちゃんになっていて、「ここにあったから食べてるんや!」と口にものほおばったまま「かはははははー」と高笑いをしていまして、ごめんねー遅くなったねーすぐ晩ごはんもっていくからねーと「ごはん」の呪文で鎮めようとしたのですが、「ほな、これ持ってくわ!」とバナナを一本むしりとってずんずんと二階へおあがりなさった。さすがにごはんはちょっとだけおのこしがでたけれども、膳をさげるときへやの引き戸をあけようとしたら、ときどきやるんですけども広辞苑とアルバムをつっかえにして鍵がわりにしていたり、やや言動が不安定な夜でした。いやあすごかったよ高笑い。なんかこう、そのまま竜巻が起こって母がオズの国にふっとばされてしまいそうなくらい迫力があった。

たぶん自分が母ほど動じないのはばあちゃんの血が自分にもまじっているからで、心身の充実度からいえばばあちゃんや父よりも自分のほうが強力に「竜巻」を発生させられるのではないかとも思うわけで、でもそれでふたりを制圧しようとするとたぶん「家がどっか壊れるからやめて」と母にいいふくめられているわけで、そうだね、たぶん家も人も損壊するくらいのエネルギーがいるよね。そしていちばん疲弊するのはやっぱり母になるわけで、ああもう、度し難い、この気質。


16日(日)
金曜日が繰り上げ給料日で当日にお金をおろしたのだけれど、よくしたもので買いもの欲が失せている。タイミングがあってしまうと「あるだけ使いきる」ことになってしまって、「なくても使う」叔父をあまり責められない状態になるのだった。

自分と叔父のちがいはあれだ、小心者かどうかってことだけよ。お金がない生活は怖いと思うから、「あるだけ使いきる」にとどまっているわけで、おそらくは病気のせいで老後の心配をたいしてしていない叔父は、「なくても使う」ことが可能なのだろうな。とは思うものの、自分ひとりならまだしも老母をかかえているのだから、やっぱりもうちょっとお金の使い方はかんがええよあのひと。ぶっちゃけ自分がさきに死んだらどうする気よ。しかしその「たぶん長生きしないで死ぬ」と思えるからこその「なくても使う」思考回路である。ううむ。健常者よりも死が近いせいで、わりとね、自由なの、たぶん。

ひるがえって自分は、といえば、お菓子をかっくらいながら高笑いして母をドン引きさせているばあちゃんが、それはもうどうしようもなく自分の老後であろうと思うわけで、ばあちゃんほどに近視眼的でないつもりであっても、加齢による「むきだし」が自分からそういった視点を奪うかもしれないのであって、だからまあつまり、どうでもいいのよ、ってなにが。

ちょうどめまいがしてきて話がまとまらんかった。あす月曜、リリエンタールのないジャンプは買いません、が、ラスト2週はさすがに打ち切り感がただよう駆け足っぷりでした、が、それはそれで、いとおしい作品でした全4巻。


17日(月)
おやいったいなにがよかったのだろう、というかんじで、すっきりと目覚めました本日。

ほんとになにがよかったのだろう。就寝は12時すぎでたのに。そしていまは耳がかゆい。みみ。ここ数ヶ月、耳そうじの度がすぎてかえってよくないのではとちょっくら不安なのですが、かゆいのでついつい耳壁をめんぼうでせっせとこすってしまう。べつに血がでたりはしていないけれど、こすりすぎているのでかゆいのでは、という気はしています。でもかゆいのだよ。みみたぶひっぱってみたり、耳の裏おしてみたり、外からかゆみにアプローチしてみてもけっきょくはめんぼうでごしごししてしまうのだよ。

なんか気がついたら怖い話コピペ集みたいなのをじりじりと読んでしまって、ああ、またもや12時こえた。


18日(火)
あたためますか? きかれて、はい、と応じてしまったものの、あれおねえさん、スモークサーモンとクリームチーズのサンドイッチって、ねえそれあっためるもんじゃなくない? むしろ冷やして食べたいかんじじゃない? と佇むことしばし。結果として、パンはあったかくサーモンとチーズは冷たい、ってほどでないけど、ぬるい、わけでもない状態で食べて、ふつうにおいしかったので、まあ、いいか。

5月はいってすっぱりと、陽射しが目にやさしくない、しゅんしゅんつきささってしぱしぱする、みたいな強さになっています。日傘はいいなあ。男性陣はまだ日傘ってものが一般的じゃなくてたいへんそうだ。さてその通勤時は日傘使用していても帰宅時にはしぱしぱになっている目で、2時間まえには寝られたのにネットにとっつかまってまた24時超過しているわけ。けさもわりかししゃっきり目覚められたけど、これ3日続くとまちがいない、あすはもうだめ。からだじゅうしぱしぱする。

そんなわけでここ3日ほど思考というものを使って書いていない気満載のメモでございます。いま「ほざいます」ってタイプした。

きのう「文藝別冊 萩尾望都」を買って、まだまだ読みこんでいないのですけれども、ああああご両親インタビューが、おそろしい。つまりあたりまえだけれども、ご両親にとって萩尾望都って「むすめ」の域を一歩たりともはみだしていないわけで、一読者の自分にとっての萩尾望都との、うすらさむい断絶、ってのがいったいこれ誰得なのよってかんじになまなましい、そんなおそろしい企画で、ああオイディプスはあの野村萬斎さんみてなのねえかなりまえだけとTV放映にいきあたったよってなぐあいに、サイフリートがユーリになにをしたかしなかったのかというところはじつはあんまり問題じゃなく、結果ユーリがどう壊れたかっていうのが話に関わってくるわけなんですけれど、まあ、いま読むと、そうですよ。

あとわたし長嶋有はちょうどきゅうに日本語が達者な作家だと思っているんですが、このちょうどきゅうのうまさっていうのは他言語に翻訳すると消えてしまうんですかね、どうなんですかね。日本語の日本語であるからこその部分を使いこなしているような、そんな気がするので、だからたとえば、村上春樹は英語にしてもそのまんまだと思うけれども、長嶋有はどうなの。そんなこといっといて村上春樹はカポーティの翻訳でしか読んだことがないのでどないもこないもないけど、きっと英語にしても村上春樹の文章になると思うんだ。長嶋有は、どうなってしまうのか、しらん。『ねたあとに』イン・イングリッシュ。どない。


19日(水)
ばあちゃんのディサービスのお迎え待ってるあいだにぼたぼた落ちてきたり、父が歯医者へむかう時間になってぱたぱた落ちてきたり、母が帰宅途中でざざざざと落ちてきたり、つまり、大きい雨だった。

そんで歯医者から帰ってきた父はまた枝を抱えていて、レインコートも濡れてるけど枝だって濡れてるわけで、そのまま玄関から庭まで屋内を縦断するのであって、それでもって結局その枝を抱えたまま屋内に立ち戻るのであって、最終的には風呂場と脱衣所を占領して自分も濡れているのに着替えもせず1時間くらい枝を愛でているのであって、玄関と居間にあたらしい花瓶をこさえている。花瓶というか、まあつまり、花瓶に活けた植物、という単語はないかな。なにかあるような気もするんだけれど。

きょうはへやの中身をすこしだけ模様替え。この場合の中身にたいする外見、は家具の配置で、きょう移動させたのはつまりそれらの内容物たちです。大きく変えてはいないので、自分にしかわからないレベルですが、おさまりがよくなったので満足である。しかしほんとう、みえなくなると存在を忘れるね。

父がわたしを呼ぶ調子が、まるで犬の仔を呼ぶようだと思うけれども、そういったら犬の仔に失礼であろうか。とりあえず、あすは通院。


20日(木)
「疲れちゃった」と父がいうので、薬もまだあるし、通院は来週にのばしました。でも出かけるつもりの時間に起床したので、せっかくなので母と車をだして午前10時の映画祭でも行こうかなあと。

ややあわただしく準備して運転席に座ってさてと思ったら、バッテリ完璧に死んでた。

いや……うん、そういえば先月の7日以降ちゃんと乗っていなかったかも……。まずロック解除されなかった時点でやばいと思ったのだけれど、キィまわして無音、というのは、ちょっと、まあ、心が折れた。助手席の母がだいじょうぶ?と声をかけてくれるのに「あー」と返事したら脱力しすぎてて口からよだれがこぼれそうなくらい気持ちが折れた。そんなわけで10分くらい車内で折れていました。

映画はいい、まだいい。本来の目的はべつにある。わざわざ車で出ようとした目的。映画のあとでお店によって、こないだうっかり仕事の昼休みに買いそうになって思いとどまった、てぶケロの抱きまくらを買いたかったのだ……!

買いものといえば、妄想ショッピングリストの値段をどんどこと加算していったらまあかるく予算オーバーしていて、うむ、ここから削る作業が自分には必要なのじゃよと削っていってる途中で、こんなことするくらいならぜんぶ買わないほうがいいや、と厭きてきた。オールオアナッシン。でもそんなこといったって、ナッシンだとこのさきの季節、物理的にはともかく心情的に「着る服がない」状況におちいることはあきらかで、なので今度はとりあえずあると便利な服、をかんがえてリストをつくりなおすと、最初のものとはだいぶちがうものになっていて、いかに「自分が着る服」という意識のうすいまま「買いたい服」を選んでいるのかを実感させられる結果になるのだった。

それにくらべると身につけたりしない、ただ所有するためだけに買うものたちというのは、自由だ。フリーダムだ。だからてぶケロの抱きまくらがほしいのだ。ほんとうは3人くらい並べたいけどへやがせまいからひとりでがまんしようと思う、でもそれがきょうでなくてはいやだ、きょうからあの子をへやにむかえいれたいのだ、という思いで、10分折れたあともちなおした。

そんなわけで、てくてく歩いて電車のって、抱きまくらとぬいぐるみ買って帰ってきました。あ、車は放置中です。でも6月に職場のみんなとBBQの予定があり、そうすると大事な足なので、はやめにJAFらなくては。


21日(金)
ばあちゃんに去年とおなじ半袖ポロシャツを着せたらあまりにぱっつんぱっつだった、と母がいっておりました。きゅうに暑いのでおようふくが間にあっていない。それにしても去年より順調に育っているってことですかい。むむむい。

暑いのであまり電気をつけていたくない、うえに、目のしぱしぱからきてるんでしょうか、頭痛がしているので、とっとと眠りますことよ。そういえば大江健三郎賞は、翻訳して海外にもっていくのを主目的としているのらしかった。ということで『夕子ちゃんの近道』はなにがしか語に訳される運命なのですね。はぁん。

どう判断しようか自分でも迷っているのだけれど、きのうときょうでなにか、どっかの箍が外れそうなんですが。外したほうがいいのかな、これ。外したらぷかぷか浮いていきそうで、そうすると浮いたその足元をすくわれるんじゃないかと思うので、外すのもどうかと思うんですが、そもそもこれはどこの箍。


22日(土)
- - -


23日(日)

雨ふり、いちにち、寝ていた。


24日(月)
雨ふりつづけですね。外れそうだったどっかの箍は落ちついたようです。どこの箍だったのかはわからずじまい。うっすら香った空気としては、なんか、どこかの、ええ、どこかの箍だということはわかっていたんですが、そんで外すとたぶんほわんほわん、のち、ぴゅーんと飛んでいくと思ったんですが、飛ぶには軽さが足りなかったというか、飛んでも落ちていたかもしれないし、まあ、よくわからん、外していないので。

きちんと自分を方向付けることができるのは、とても無駄がなくてすっきりした姿勢だと思うのですけれども、きちんと方向付けしなくてはならないほどの無指向性なんて、べつになかったりするのかもしれない。むいている方向はあるけれど、なまけたいので寝ころがっている。なにかが外れても四方八方飛び散ることはぜったいになくて、いちおうどこか、定めた方向に飛んでいくのだけれども、そうするとまた寝ころがるのがたいへんなのかもしれないのだよ。自分の真芯はなまけもの。

買いたいものがあるのに買いものがめんどうくさいのは、いったいどうすればいいのだ?


25日(火)
- - -


26日(水)
火曜は朝に少年とその妹をみたのですが、あらまあ、妹が頭を凛とあげさきに立ってすたすたと歩くうしろから、少年がいつものロゥテンションすり足で進むフォーメーションになっておりまして、なんだ、どうした、妹は一月半ほどで小学校に慣れ、兄をも凌いで成長しつつあるというのか。じつは体格差もあんまりないんですよね、女の子のほうが成長する時期がはやく来るっていうし、少年は妹の背を見ながらっつうかあいかわらず自分の足元見ながら進みゆく。どうするどうなる家庭内ヒエラルキー。

さてきのうは帰りが遅くなったので夜もさっさと日付をこえてしまい更新せずに寝ました。そして本日ですが、なんかここ3週間ほど、水曜は雨じゃね? ばあちゃんをディに送りだしたあと、ずるずると眠ってしまったらサム・ライミ「スペル」的な、老婆突撃大襲撃な夢をみてどっと疲れた。あいたたたなことにその老婆はよくみるとうちのばあちゃんじゃね?ってかんじだった。なので大襲撃のわりにはどことなくとぼけた風情でもありました。起きたらなんか体勢がみょうなことになってて、苦しかったからそんな夢をみたのか、そんな夢をみたから体が苦悶のポーズになっていたのか、にわとりたまご。しかもそのあと寝直したら夢は続いていたぜ。当のばあちゃんはけっこうおだやかさんにお帰りなさいました。

というわけできょうはいちにち平和でしたよ、と仕事から帰宅した母に告げる間もなく「あっちで入院が出た!」と先制攻撃される。おう。なんかほんとに「出た!」ってかんじだなあ。

叔父が5日くらいから具合が悪かったそうですが、こっちに負担をかけまいと特に連絡せずいろいろ検査をしたりなんだりした結果「心臓ペースメーカーいれるかもー」ということにあいなりました。倒れると危ないのでオンザ車椅子、手術するまで家にも帰っちゃだめ、という状況らしく、さーて祖母の処遇をどうするよってところですが、きょうは母の兄がむこうに泊まってくれることになったので、うちから人員派遣はなし。というか今週は母も自分も動きにくいのだ、こうなってくると先週木曜に父を通院させなかったことが悔やまれますがしょうがない。そして叔父は叔父で「お金払ってないからあしたから携帯電話とめられるの」というあいかわらずのフリーダムっぷりです。

そんなわけでいま現在母と伯父が連絡をとりあって、絶賛真っ最中!なかんじの臨場感をたいして伝えてもいない文章ですがひとまず本日はここまでに。


27日(木)
たいへんひさしぶりに食卓でばんごはんを食べたら、思いのほかほっとしたきもちになった。まあ父がやってくるまでのあいだですけどね。というか誤嚥に気をつけてねっていわれているので、食事はいっしょにとったほうがいいんだけどさ、3時間もあらゆる意味で粘りながら食べつづけるのに付き合いたくないので放置プレイなんですよね。これは誤嚥性肺炎まっしぐらコースなのでほんとはよくないの、わかってるさ。

そんな父にも、本日ぶじに要介護1の認定がおりました。これで1階のトイレ改修にも補助がおりるよ。できればしかるべき施設に通所もしていただきたいところですが、まあ、多くは望むまい。

叔父ははやければきょうにでも手術だったようですが、持病にからんでいろいろ処置があるのでひとまず見送りになったようです。伝聞。今回は伯父が動いてくれるようなので、母をできるだけ使われたくないというのが正直なところです。叔父−祖母体制が脆弱なのはあきらかなので、なんらかの策を打つ必要はあり、その場合主軸となるのは結局こちらだと思うんです、けど、ね。ぷくー。


28日(金)
- - -


29日(土)
伯父がたてかえてくれたので、叔父の携帯電話はふっかつしたそうです。母をふくめて3人でいろいろ連絡とりあっています。結局、ペースメーカーの手術は31日になりました。で、それが祖母がいま臨時ではいっているステイ先から移動する日とおなじ日なので、伯父と母で連携とっていろいろ、なんだり、かんだり。叔父はそのあとカテーテル検査もやるので、それを透析のあいまをぬってするわけで、退院はいつでござろうか。ところで皮下ポケットってなにでつくるの?

きょうは先週行かなかった父の通院でした。母のほうは午前中にばあちゃんの皮膚科の通院、午後は地元の特別養護老人ホームに相談に向かい、やたらとタクシーを呼びまくったいちにちでしたが、うち3回はおなじ運転手さんにあたった。ああそれにしても、車のバッテリ。

病院最寄の駅について、父がトイレにいくので出待ちをするのですが、きょうその最中に「ここからM駅へはどう行けばいいですか?」ときかれてしまいました。気後れせずに話しかけることができる外観をしておりますが、わたくしは案内人としては優秀じゃないのですよごめんなさい。ええと、たぶんこのホームの電車で行けますよ、とおぼつかない案内をしていたのですが、そしたらこんどは「これはどうすればいいですか?」とT駅から160円区間の地下鉄の切符がでてきたので、かんぜんに思考停止した。え、どうしてこの人は改札に通したあとの地下鉄の切符をもってJR駅構内にいるのだ。もうしわけないがM駅についたら駅員さんに精算をたのんでおくれな、と身振り手振りで伝えてみた。たぶんそれが不安だからきかれたんだと思うんだけれども。精算機をつかうよりはわかりやすいんじゃないかな。

そんなことしているあいだに父は自分をさがしていちど改札をぬけてしまったらしく、その後もいっかい通ってしまったので、いっしょに出ようとしたら父だけばったんこされて、うろたえてでも話をきかずに数回挑戦つづけてりんごんりんごん鳴らしてましたけど、まあよい。家に帰ってから母に地下鉄の乗り入れを確認したので、こんどからはもうちょっとマシに案内ができるような気のせいがします。ごめんね快速でもM駅には停まるのに、各駅のホーム案内してしまったのよ。ぶじ着いたであろうか。


30日(日)
叔父のへやのおかたづけに母とでかけました。今夜(というかあす未明)泊まる予定の伯父へのさしいれにリポビタンゴールドも用意しておいたよ! なにもはいっていない冷蔵庫に水とリポビタンゴールドのみってなにかよけいに疲れる光景だろうか。ユンケル黄帝液とかのがよかったかしら。

不穏な気配を察してややらんらん気味になっていたうちのばあちゃんは、ひとまずディに行ってくれる気がありそうなごようす、あすの朝までこのごきげんがつづくことを祈るばかりである。

そんなわけではやく寝るのです。


31日(月)
皮下ポケットとはなんぞや、という謎がちょっとだけ解けました。

ペースメーカーの手術はおわり、こんどは水曜にカテーテル検査と、ひょっとしたらもいっちょ手術。日を改めるかも。伯父も母も叔父もおつかれさまでございます。そんなことよりカテーテルぶっさす箇所によって、安静時間とか異なってくるらしいのですが、手首からのカテーテルもあるってなにそれこわいこわいいたい。実際は鼠径部から入れるより術後の負担がすくないみたいんなんですが、想像すると、て、手首の動脈からって、うひゃうう。たぶん叔父は透析用にシャントつくってるのでむりなんだと思いますけど、そもそもあのシャントがこわい、びゅんびゅんしてるんだもの。自分は手首の動脈というものがたいへんにこわいのですが、踏み台昇降のあと脈とってもらうのにもひいひいいってそのくせ頚動脈はこわくないので結局は頚でとってもらった気がしますが、まあとにかくその理由の1割くらい、幼きころに触れさせてもらった手首付近のびゅんびゅんが影響しているのかもしれぬよ。

さっきまで帰宅した母がとなりで音もたてずに倒れ伏していましたが、おふとんでお眠りなさいなと追いたてました。きょうはばあちゃんも穏当にお過ごしなされたし、よかったよかった。



4月 index 6月