2010年6月 |
1日(火) 駅に救急車がとまっていて、さらに消防車がやってくるところで、さらにさらに発車の時間がせまっていたので足早に階段をのぼるわたしのとなりを消防隊員が駆けあがっていって、なんだろうと思ったんですけど改札で人が倒れているとか車内で急病人がでたとかお客様が線路内に立ちいられたというようなこともなく、ふつうに電車に乗れてふつうにがたんがたん揺られていった朝でした。わたしをおいぬいていったあの隊員さんはどこへ行かれたのだろうか。 ここ数日、きばって飯を食っていたら消化はするけどそれだけよ、という腸のストライキにあい、下腹が重苦しいのでございます。食べたくないときは食べないでいいんだな、ということを何回思い知れば実践できるのだろうか。でも食べたほうがいいときだってあるわけじゃん、と思うけれど、いまだかつて食べなくて倒れた経験はないので、それはつまり食べなきゃいけないときはちゃんと食べたいと思うってことじゃないかしらん。この語尾は「かしらん」なのか「しらん」なのか「ん」なのかしらん。「かしら」という語尾をはじめて意識したのは野比のび太のモノローグでしたけど、どうでもいいですね。 どうでもいいといえば、きょう職場で上司が「これ知ってる? ど根性カエルのピョン吉は……ヒロシが転んだときにつぶされてTシャツのなかにはいっちゃったんだよ!」といったのがどえらいツボでした。そんな「ドラえもんは未来の猫型ロボットなんだよ!」みたいな話。 2日(水) 母を「わたしのばあさん」といい、父を「わたしのおとうさん、つまりあんたのおじいちゃんやな」というばあちゃんの本日午後4時時点での脳内家系図を問いただしてみたいですが、いっしゅんで消えてゆくのでとらまえることはできないのである。あと叔父の手術のことははっきりと伝えていないのですが、父経由で知ったのかどうか、ちょっと変節して母の具合がわるいことになっていますけど、とくに否定はすまい。基本的に、たいそうごきげんで過ごしているここ数日なので助かります。 叔父はきょうの手術でいちおう今回の処置はおわったのかな、伯父からのメールでは詳細がちょっとよくわからんのですが、というか母の兄弟はどちらもメールがちょっと意味わからんのですが、なぜでしょう。わたしはかれらが共有している身内言語のそとにいるからだろうか。しかし母にもときどき意味がつかめないそうなので、単純に文章が苦手なのか。 単純に、といえば、きょう午後に父がいすに座りながら「ちょっと眠くなってきたから、寝るな」とつぶやいて、「あれをもってきてくれ、てぶくろ」「ちがう、ピーマン」「ええと……いちばんうすいやつ」と頼んできたのですが、上着をもっていったら「あれ?」と首をかしげられたので、外れだったのかもしれない。「まあいいか」と羽織って、そして庭へおりていきました。眠いのどこいった。 それより問題は「ピーマン」ですよ。野菜の名まえをあげてごらんなさい、といったら「まめ」「かぼちゃ」しかでてこないのに、ここでピーマン。このひとはなんの病気なのだと思うのがこういうときです。認知症じゃなくて、なんだ、失語症じゃなくて、ええと。脳梗塞とかで倒れた人が、知っているのにことばがでてこないとか、口に出したときはちがう単語になっているとか、そういうの。単語を入れた引き出しはきちんと存在しているけど、そこへのアクセスに不具合がでてしまっているかんじ。ここで「ピーマン」がでてくるのはそういう病に近い気がするんですが、問題はこのひとの場合、もともと引き出しのなかがからっぽなんじゃ、という疑惑がついてまわることで、つまりなんだ、単純に、あたまが悪いだけだったらどうしよう。 3日(木) ここんとこ朝起きるとふくらはぎが痛いことが多くて、こむらがえりではないんだけれどずーっと張ってるかんじで、あったかくなったからってべつに足だして寝てないんだけど、着るものは薄手になったから冷えてしまっているのだろうかと思っていたら、「水分不足ではないか」という指摘をうけた。そんなわけできのうは意識的に水分摂っていましたら、なるほど今朝は痛くありませんでした。「ちゃぽちゃぽ飲んだのに」やっぱり攣ってしまった母のこともあるのですが、すくなくとも自分の原因は水分不足、なのかも。 帰りに文房具屋でどっかの国のクロークチケットみたいなものが綴りで売っていて、ふらふらと買いました。なににするって、もちぐされるのさ。こういう紙ものの傾向として、文字はアルファベットで、でも一読意味がわかってしまうとつまらんので英語はなし、仏語独語もすでにポピュラーすぎる、ということでたぶん東欧の、ハンガリーとかそこらへん、とあたりをつけていたのだけれど、バーコードによりチェコのものと判明。一瞬でベルネル。ちまちまグーグル翻訳してみたらやっぱりクロークチケットらしいのだけれど、なにかが男性名詞(動詞?)なのか、「彼に服を見えるように着せる」とかでてきます。切りとる箇所にはチェコ語→英語だと scrap と書かれている。さしずめ日本語ならば「もぎれ」でしょうか。ちがうか。 輸入文房具、というジャンルがあるわけだけど、海外にはたとえば日本製をおしゃれ文具としてもてはやす風潮は存在するのだろうか。日本の便箋類などは非常に凝っていて大量生産品にしては図抜けてレベルが高いのではと思うのだけれど、日本の市場が輸入文具に求めているおしゃれ感は「どっかくたびれた」「なんかちょっと粗雑な」的なものであり、そういう小綺麗なかんじとは逆なものなんだろうなあと、つまりなんだか、きなくさいというか、うさんくさいのですが、欧州輸入雑貨を好む傾向って。そのうさんくささにめげずにせっせともちぐされていくわけですが、自分は。 4日(金) 午後はところにより激しい雷雨であるらしい。でも出がけは晴天なので日傘をもって、このうえ雨傘までもちたくはないので、どうも晴雨兼用ではしのぎぎれぬ雨の予報だけれども、いざ、と日傘のみで出勤して、ことなきをえる。帰りは地元駅についたとき空気がかなりしめった匂いでしたけど、ざんざん降りはじめたのは夜10時あたりからでした。現在進行形。雷けっこう鳴るな。 この週末でいいかげん車をどうにかしなきゃいけないので、ここに記しておきます。 5日(土) にゃむにゃーむ。気力がわきあがらないのでへなへなと寝ておりました。ときおり母の携帯にとどく叔父からの報告がちょっとおもしろいけれども、祖母の臨時ステイも現状では14日までだし、どうするかなー。 しかしですね、どうにか祖母を施設にいれることができたとしてもですね、「入れっぱなしになんかしない、週3回は会いにいく!」とかいってるんですけどこの叔父さん。あんた週に3回透析だろうが。その他の日は仕事してんだろうが。めんどうみられないから入れっぱなしにするんじゃんか、おばかさん! 6日(日) お天気頭痛だったいちにち。車はどうにかしたのでぎりぎり及第。 7日(月) お昼に買った野菜ジュースについてたストローが、「不快音をたてない静かなストローです」とのことで、たしかに少なくなった中身をすすりあげても音がならなかったのだけれど、どういう原理だろう。あと音がなるのってストローが原因というより紙パックが原因であることもある気がしますよ。 で、ぱっと見たところ、内部に溝が1本ありましたが、溝をほるとなぜ静かになるのだか、わかるような、さっぱりわからないような。これははたして「音たててしまうのがいやなんです」「自分では飲みませんがまわりの人が飲んでるときの音が不快ですからメーカーが工夫すべきです」というお客様の声から生まれたのか、「静かなストローってちょっとよくね? やってみる価値あるんじゃね?」という需要はともかく思いついたからやってみたいぜ精神から生まれたのか、消費者あまやかしなのか生産者のこだわりなのか、こういうパッケージや付属品への姿勢というのは、みあげたものなのかなんでそこまでと思われるものなのか、というようなことをつらつらと、かんがえつづけているわけでもないのですがね。 ここ数日、ものすごく生きるのを怠けている、ような気が、自分をほんのすこし責めたてるのだけれども、なにせ怠けているものだから、それすらどうでもいいような、はっきりいって仕事しかしていないような、そんなかんじにどっぷりなまけものなので、ちょっと今夜からがんばる! まずは、さっさと寝るよ! 8日(火) 全粒粉はちみつベーグルを「ぜんりゅうこ」と読んだら「ぜんりゅうふん」と復唱されたのだったか、その逆だったかが思いだせず、つぎにたのむとき「ホールウィートはちみつ」というのもあれだし、「はちみつ」でいいかしらということに悩んでいたので、いま確認した、ぜんりゅうふん。 文房具メーカーは、とくにノートやルーズリーフに関して思うことですが、ひたすら「ならべてたのしい! あつめてたのしい!」ことを主眼に、9割方死蔵されることを見越して製品をつくりつづけているのであろう。カラーバリエーションとかサイズバリエーションとか無地とか横罫とか方眼とか、あああもう。そしていざ集めてしまうとその白紙をうめるだけのコンテンツが自分にないことに気づいて(あるいは最初から気づいていて)びっくりするというかひょっくりするというか、まあ最近はもう白紙をまえにうっとりする傾向がかたまりつつあるのですけど、10年まえなら白紙をせっせと埋めることに幸を見出していたわけで、なにかな、この逆転は。 つまり1週間後にはさまざまな白紙をながめてほくそえんでいるかもしれない自分への、いちおう戒めのつもりの段落なんですが上は、それはそれとして、また水曜は雨か、左足首がしくしく痛む。 9日(水) 痛い足は右だったのだけれどゆうべは左とか書いているな、あぐらかいててどっち足なのか左右を見失ったのだろうか。そんなことがあろうか。「そんなことがあろうか」というのはしばしばばあちゃんが口にする定型句で、「あろう」の発音に猜疑の念をこめた凄みをきかせます。ちょっと巻き舌かもしんね。そんなことがぅあろうか。 ねむたいわあ、といってたそのばあちゃんですが、ディには行ってくださいました。で、家にのこるのはアーデルハイトとなります。そのアーデルハイトが「ちょっとな、会社にいってな、これでいいかピックアップする」といってきたので、さっぱり意味がわからないけど出かけるつもりなんだろうか、と思い「郵便局にいってくるので、わたしが帰るまではちゃんと家にいてね」とだけ返しておきました。会話をしようとするな、ただし伝えたいことは言及しろ。 で、用事をすませてもどってきたらば、電話機のそばにはってある家族や病院やタクシーの連絡先一覧表をはがして、別紙にいくつか書きだしているところでした。べつにどこにも行く気はなかったらしい。その後のようすをみるに、「会社」は「携帯電話」のことだったのかもしれない。必要そうな電話番号を「ピックアップ」していたみたいですが、どうなったのやら、午後には携帯電話だけテーブルにのこしてお庭にでていました。まあ基本、意味がわからなくても深追いしなければ、かってに終わってくれます。でもかってに終わらせたことがたまにとんでもないことだったりもするので、深追いが必要なこともあるのかもしれないですが、迷宮入りになりそうなので基本は上記、会話をしようとするな、ただし伝えたいことは言及しろ。 10日(木) ばあちゃんとわたしの今朝の会話。 「きのう行ったところ(ディサービス)でな、鏡があってな、わたしおなかだいぶおっきいな」 「うん、知ってる」 「知っとったかな」 「知ってました」 「わたしみたいなおなかの人、ほかにあんまりおらへんな」 「そうかもねー」 「みんな、あの人肥えとるって思うとるやろうな」 「いやー、痩せてるよりじょうぶそうでいいんじゃないかな」 父に「われこそ世界唯一の病人」の呪いをかけたばあちゃんに対して返答が非情すぎたのか、しょんぼりして朝ごはんあんまり食べておらなんだ。しまったなあ、と思ったけれども夜にはもりもり食べてたからまあいいか。いちおう、おやつを出さないようにしますね、とおやくそくをしました。呪いをかけられた父のほうは、叔父の退院をきいて「そうか、じゃあもう元気なんだな」「むかしから元気だったもんな」と発言して母娘をそれはなにかちがわないか、という思いできりきりさせている。もうこれはあれだ、「だって元気なんだろ」は「だって死んでないんだろ」という意味でしかないな。しかし死んだら死んだで「なんで死んだんだろう」といわれてしまうのだ。だれだって死ぬよ。そして叔父はあからさまに死にやすい人だよ。きりきり。 その父の通院でしたが、はやめに帰れたし夜は「オーケストラ!」を観に車ででかけましたよ。ロシア人は田舎者でユダヤ人はしたたかに金儲け、ロマは非合法ばっちこい、というようなお話かもしれない。 11日(金) 帰りの電車が途中駅を出てすこし行ったところで急ブレーキ、しばらく停車。ひさしぶりに帰り時間が一致した友人と、なんだかんだと状況を想像してみる。 「運転士が床下で異常な音を感知したため」というアナウンスが流れたので、床下、床下ってなんだ、車両の「床下」って存在するのか、要は線路にあったなにかをひっかけたってことなのかしら、それならばぜひ穏当なものであってほしいよな、と話すあいまにたびたび「線路内は危険ですから降りないでください」「お手洗いは前より何両と後ろより何両」と流れるんだけど、つまり長期戦を覚悟しろってことか、しかし降りたくても降りられないよね、いや緊急ボタンを押せばドアが手動で開くようになるのだろう、降りる人がいるのかな、アナウンスしとかないと「降りるなっていわれなかった」とかいわれちゃうんだよきっと、などといってるあいだにようやく「ただいま運転士が確認をとっている最中です」とのこと。ということはこれをしゃべっているのは車掌さんだよね、しかし運転士はいままでなにをしていたのだ、「音を感知」してからブレーキをかけたってことで、制動距離はいかばかりか、運転席を降りて、てくてくてくと最初に「感知」した位置まで戻っているのかもしれぬ、そりゃあ確認に時間がかかるな、つうか暗いしな、もっと駅のそばならほかに応援もくるのにね、というところで「ただいま運転士が下周りを確認しています」という続報。下周りって水周りみたいな意味だろうか、ようするに車輪のあたりってことなのか、いや待て、そもそもはじめが「床下」だったな、これは文字通り「運転席の床下」で音がしたんじゃなかろうか、だってふつうは「線路内で異常な音」っていうじゃん、それが「床下で異常な音」だったんだから、ほんとに床下なんじゃん、いま運転士さんがどこかをぱこっとあけて「下周り」を確認してんじゃん、というユリイカの最中に「安全の確認がとれました」と発車したのが17分後。 しかし電車ってまあ職員さん? 鉄道員さん? はだいたいふたりくらいしか乗っていないわけで、あのぞろ長いものにイレギュラが発生したばあい初動がたったふたりというのはたいへんであるよなあ。そういえばきょうの車両はグリーン車がついてた、きっとそこにもうふたりくらい乗ってたはずだわ。 12日(土) BECK'Sの「ニース風サラダプレート」が気になっていたのできょうお昼に食べたのですが、ちょっとどうしようかなと思っていたのがデザートについてる「アップルマンゴー」です。なんだろうアップルマンゴー。 察するにフルーツトマトのような、マンゴーっぽさが少ないマンゴーなのであろう、とみこして挑戦してみました。結果:食感がぽるんぽるんしているメロン。 うーむ、これはアップルマンゴー独自のものなのか、それともマンゴーってこういう味だったのか。自分は食べられないと判断したのは飛行機のなかで出されたものを口にいれたのだったか、いれずに拒否したのだったか、いずれにしろ8歳のころでございましたから、ひょっとすると20年経って食べられるようになっているのかもしれませぬ。そもそも匂いがだめだったような、そしてそれはマンゴーだったかパパイヤだったか記憶がおぼろなんですけれども、どちらにしろどっちも出されてだめだった覚えはある、南国フルーツはライチだけがうまい、という思いを頑なに守ってきましたが、どうなんだろう、マンゴー。 しかし特に、もういちど食べたいという味ではなかったのでした。おそまつ。 13日(日) きのう流れた「アイアンマン2」の鑑賞を、朝いちばんの回で果たしてまいりました。どうしても「アイロンマン」と読んでしまうんだな。どっちもまちがっていない(あるいはまちがっている)んだけどさ。 そのあとおようふくを買うつもりでお店をふらふらしていたら、用意していた金がすべてシールと付箋とマスキングテープに消えたときにはさすがにどうかと思いましたよ。やはりちゃんと値段を確認しなくては、目についたものを容赦なく買ってしまうまえに。 14日(月) ここ5日ほど、頭痛レスなすてき生活を送っています。コツはただひとつ、はやく寝ることです。 いやほんとうに、びっくりするくらい頭痛レス。しかしきょうはじゃっかん、眼窩の縁がじんじんきているので、はやく寝ます。つまり自分の頭痛はすべて目からきているわけだな。眼窩の縁の、上っぺり、両のまゆげのあたりが痛むのです、毎度。そういえば下っぺりはべつに痛くないけど、なぜだろう。 15日(火) - - - - - - 16日(水) 火曜日は朝7時のニュースが自分が家をでるまでずっとW杯の話題でございました。サッカーって人気あるのね。そしてカメルーン選手のすがたかたちのうつくしさがはんぱなかった。 あけて本日水曜、また雨か!と思ったら蒸し蒸しに晴れてきた。ひさしぶりに自転車にのりました。自動車に乗ってやっていないというレベルをはるかにこえて、よくかんがえたら1年ぶりくらいだ自転車。そして愕然としたのですが、自転車筋がそうとう衰えている……! 歩くほうがぜんぜん楽じゃないか、とくに上り坂。電気もガソリンも使わず、徒歩より何倍もラクに何倍も速く走れる乗り物、それが自転車のはずなのに(リリエンタール3巻は7月発売ですよ)。行く道のとちゅうに「眼鏡市場」があるんですけど、ペ・ヨンジュンが怖くてちかよれない。そういえば職場近くのシネコンでは「ペ・ヨンジュン3D」という恐怖映画が上映中です。口をうっすらと四角くあけている笑顔がとてもこわい。 あ、それで『乙嫁語り』第2巻、『坂道のアポロン』第6巻を買いましたよ。 17日(木) 冬は寒いから枚数がいる、そして夏は暑いから枚数がかさむのだ。 洗濯物をタンスに帰還させるのを3日ほど怠っていたのでさきほどまとめてすませたのですが、うーんと、なんか、増えた。買ったから当然なんだけど、もっとすくなくても生きてゆけるはずだと積みあがってしまった半袖たちをにらみつつ、冒頭の結論にいたる。1枚で着ることが多いし、洗いがえが必要だし。それにしたってもうちょっと減らせるような気がしないでもない。スペースがすくないと、あまりゆたかな気持ちにならないな。たぶん夏のおわりには暑さに厭いてあれもこれも雑巾にしてしまえという気分になってるだろうから、選別はそのときでいいか。 しかし布は大量にあるといきぐるしいけど、紙は大量にあるとうっとりするのはなぜだろね。自分がすきなのは服そのものを並べることではなく、服の写真をならべることではなかろうか。 18日(金) 数日つづけて父といっしょの食卓についていたんですけど、きのうは外で食べてきました。夕飯のはなし。で、帰宅したときにはすでにテーブルで寝ていたので、まあはっきりと、顔をみせて「帰りました」報告はしてなかったんですよね。夜12時ごろに階下で風呂をつかう気配がしていて、ピーピピピ・ピーピピピ・ピーピピピとむだに電子音がきこえていたけど(シャワーを温水にしようとして「呼び出し」をおすのです)、もう半分寝ていたのでほうっておいたんですよね。2時すぎに「なんだ、帰ってるのか!」とへやのドアを開けられて起こされたので、「なに考えてんの!」と2回ほどいいはなって追いかえしました。うん、自分も寝惚けているな、なんだ「なに考えてんの!」って。いや、ただしい気もするけど。2時だし。 そのいっぽうで、ばあちゃんは「テレビのうしろから、犬のようなよつあしが、こう、口をかぱっとあけて」現れたということで、母を呼びつけておりました。朝おきて各事件の時間帯をたしかめようとしたのだけれど、おたがい「そういえば父さんがなんか叫んでた」「ばあちゃんがなんかいってたのきこえた」ということは思い出しましたがどっちが先だったのかさだかでなく、まあどっちも2時ぐらいだったんじゃね、ということにしておきました。ばあちゃんはけさも7時にはお目覚めになって、「よつあしが、口をかぱーっとあけてな」と怪談をつづけておりました。「あんたらのへやには行かなかったかな」と。つまり寝惚けていたのではなく彼女にとっては「いた」わけなんですが、「でも自分がそんなの見えてたら怖くて正気じゃいられないよ」という母の言には「だから正気じゃないんじゃない?」がファイナルアンサーでいいだろうか。なんらかの不安、不満が具象化して目にみえる時点で、ある程度「正気」を踏みこえているのだろうとは思います。 ちなみにきょうになって「原因」と思われるものが判明したんですが、おとなりの犬が具合わるくて日中にちょっと鳴いていたようなんです。で、ばあちゃんのへやがいちばんおとなりに近い、と。鳴き声がするとすがたが見えるって、え、なんだそれ、共感覚? たぶんちがう、けど、ばあちゃんのこの種のメカニズムは非常に興味深い。しかし夜中にきくとただの怪談ですから。眠いですからうちらも。 19日(土) - - - - - 20日(日) 布が、ふえた。 19日はひさしぶりにお買いもののために出かけてみましたら、まあとうぜんなんですけど、いろいろ増えてしまった。6月もまだ2週間をのこしているというのにほぼ使い切った感。まあかなり気分がよかったのでいいんですけど、この気分のよさはうっかりすると「着たい」じゃなくて「見たい」ものを買い揃えるというまるきり実際的じゃない行為を助長するのでありました。実際的。うん、いいことばだよな実際的。自分に必要なことばだきっと。着るものはもうじゅうぶんだ、見るものを買うのはよしたまえ。 金曜にひだりのふくらはぎに痣ができてるのを人にいわれて気づいたのですが、青タンだったそれが日をおいて紫と黄色のまだらタンになっていて、どうして治る過程がいちばん見た目にショッキングなのかしらね痣って。そしていつどこでできたのやらさっぱり。それはともかくこの脚だとくるぶし丈しかはけないわけで、ちょい暑苦しいけどしかたないな。 どことなくなんとなく、気がそぞろなかんじが数日つづいておりますが、たぶん陽気のせい。自分ですらこれなので、ばあちゃんが不安定なのはいうにおよばず。やたら活発だったりやたらひとりごと多かったり、とても元気に不安定です。負けるものか。 21日(月) 化粧をしてから気がついたのですが、起きてから、顔、洗ってなかった。びっくりしたけどそのまま出勤しました。粉ののりがいいとは思ったんだ。ということは毎朝洗顔で皮脂を失いすぎているのだろうか。だからといって洗わないわけにもいくまいよ。洗わなかったんだけど。 タンスのなかみを見ながら、増えたぶんだけ処分したいなあとうすらぼんやり思う、そのそばから増やしたい気もしてくる、なぜかっつうと暑いので、服をえらぶのがめんどうなので、それでいて毎日おなじ服だと厭いてしまって雑な気分になるので、血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ、 になってしまうので。 しんねりとまといつくような夜気のねばりに、ひさしぶりの頭痛がじんじんしているのですが、まあようするに、はやく寝ろってことで。土日は12時就寝だったので。やはり10時就寝がからだにいいみたい。 22日(火) はあ、蒸っし蒸し。 うっかりすると気分があたまのななめ上方向にわだかまってしまうかんじ。こういう気分になると、なるほど「新しい」ことは強いな、と思います。新しくありつづけること、は、大事です。なんの話かというと週刊連載ってすごいよね!ってことだよ。月刊でも隔月刊でもそうなんだけれど、連載漫画があるってそれだけで毎週「新しい」を運んでくれるんだから偉大だよ! しかしそんな新しい月曜日がすぎてしまったので、新しい火曜日のよりどころがなく蒸っし蒸しなのです。そんなことをいいながら麻耶雄嵩の旧作をひっぱりだして読みかえしているので、魂がぬけそうなんじゃないかい、己よ。新作『貴族探偵』(足掛け10年とのことですが)と較べると、麻耶先生もなんだか人間の良心というものに目覚めたかのような気分になりますが、どうでしょう。 23日(水) 破傷風かあと思ったのも遠い日ですが、麻耶を読みかえしだしたらちょっととまらない、しかし家に全作そろっていないという悲劇です。『痾』『あいにくの雨で』『鴉』がありません。おかしいな、なんで絶版。どうしてこれらが絶版。いやこれ、ほんきで意味がわからないのである。綾辻の『十角館の殺人』がオールタイム手にはいるように、麻耶の作品だってオールタイム買えなきゃおかしいだろうと思うのである。あ、でも『翼ある闇』文庫は絶版にはなってないから、まあそういうことか。いやどうゆうことだ。とりあえずかりてきて読もう、これが祭りの終わりなら、スターマインを打ち上げなくては。と思ったのに地元の図書館にはそもそも『あいにくの雨で』が存在しないという無情。そのうえ『痾』もないです。でも『翼…』と『鴉』は単行本とノベルスであります。ひとまず『鴉』ノベルスを読んでいるわけです。 というかなんで麻耶のはなしばっかしてんの自分。 今週の土曜から最寄りのシネコンで「アマデウス」が上映されるのですが、本日衛星放送でディレクターズカット版をやっていたのでちらちら観てました。でも夜更かしするとなんかおなかがへってしまって、そしてうちの冷蔵庫にはばあちゃんを鎮めるための和菓子が常備されていたりして、そんなわけで道明寺をうまうまと食べました。そしたらてきめんに胃にきていやがる。けふー。 24日(木) なにか、バチがあたったのやもしれぬ。昨夜、ばあちゃん鎮めの和菓子を食べてしまったことで。朝の6時まえに玄関から外にでてしまったりと、不安定なばあちゃんがへやにもどされてしばし、「腹がへったんや!」と吠えなさる。和菓子はストックしてありますから。というわけで、朝ごはんのまえにおそなえを運ぶことになりました。鎮まりたまえ。 一日中らんらんばあちゃん形態だったようですが、まあやっぱり、食べさせておけばいちおう鎮まるわけで、肥えてしまった一因は我らが畏れをなしてせっせと食わせていたからでもあり、どうなのかなあどっちがいいのかなあと迷いつつ、気持ちちょっとダイエット、なつもりできのうのディ帰りにおかしをあげなかったから、そのぶんあまった道明寺をわたしが夜中に食べてしまったから、こんなことになったのだろうか。因果関係はともかく、不安定になると腹がへるのか、腹がへっているので不安定になるのかが、よくわからないのであります。とりあえず食欲をむきだしにしたばあちゃんは獰猛であります。 そういや叔父が、ペースメーカーをいれた関係で携帯電話の影響について調べていて、総務省のHPでみつけたと母にコピペを送ってきたのですが、第三世代の携帯電話の使用者が全体の98%だそうで、ということは第二世代(MOVA)の自分は2%のひとりなのです。2%、おお、思っていたよりすくないですね。ちかごろまた充電もがんばってくれています。2012年まできっとがんばってくれます。2%のきみよ。 25日(金) 仕事帰りにおうちでカフェご飯をカフェで出す店によりましたが、カウンター席のとなりに子どもが3人やってきました。親御さんと連れ立って来店して、親は親同士でテーブル席、子どもは子供同士でカウンターに置いていく、という配置だったみたい。 で、いっこ席をおいてとなりに男の子が3人座ったんですが、ドリブルがどうのこうの、バスケ部がどうのこうの、ドリブル得意なんてそういうこと恥ずかしくていえない、いやちがう、中心的人物はじつは中心にいない、それがバスケ部だ、などとひとしきりしゃべっているなかで、3人以外のほかのだれかを指して「ナルシってる」ということばがでてきました。「あいつナルシってる」と。これほかの活用が気になる。ナルシるとき、ナルシれば、ナルシれ。というかナルシるナルシルアンドゥリル。高校のとき、非常に耳障りでそれはないなと思ったことばに「ボコる」と「コクる」があるのですが、より正確にいえば「ボコった」「コクった」の「った」をつけたときが不愉快の最たるものでしたが、「ナルシった」はありだと思うな。 ところでその3人は体格から小学生、それも3年か4年だろうと思ったのですが、ひとりが着ていた体操服らしきシャツの背中に「×× JUNIOR HIGH」と書いてあったので、あれ、中学生か。でも中学生が金曜の夜に体操服着たまま飯食いに出るだろうか。きょうだいのおさがりを普段着に着ているのだろうか。しかし自分が中学3年生だったときの1学期始業式を思うと、中学1年生男子の最前列、というのは、びっくりするくらいランドセルであった。最後尾は最後尾で、サラリーマンだったりする、女子と較べると格段に体格のバリエーションに富んだ生きもの、同学年のランドセル組なぞ高校にあがったとたん見かけなくなったと思ったら顔の位置がいつのまにかわたしの目線の上になっているとか、新生児でもないのにこの短期間でその体積のかわりようはなんだ、と思う、そういう生きものが男子でありましたな。 スパゲティをたのんだ子にべつの子がイタリアではスプーンってこどもが練習に使うんだぜ、イタリアでスプーン使ったら笑われるんだぜといっていて、もうひとりがでもここイタリアじゃねーもんといっていた、とりあえずスパゲティはなにで食べるのがいいかといえば、箸を使えば無問題だと思うんだ。ここは日本ですもの。 26日(土) どうであろう、と警戒していたらそうでもなく、だいじょうぶだな、と安心したらやらかしてしまう、というのはまあ、法則だからしょうがない。わりと不安定がつづくばあちゃんのおはなし。「へりきっとるがな」といわれました、あ、おなかがね、へった、ではなくて、へりきった、らしい。 さて本日、ネットで紙を大量に注文してしまったのですが、うん、どうしようね。そのうえ出かけたさきの文房具屋でもまた紙のまえでたちどまってしまったよ。思いとどまったけれど。まあけっきょく、スケッチブック類のまえでたちどまったとしても自分は致命的に絵が描けない、ので、文字を綴る方向に逸れてレターセットのまえでたちどまったりするのだけれども、べつにあの白紙をだれかへの手紙でうめたいわけでもなく、フィクションでうめてしまいたいというのが欲求の正体かなあと思うわけで、まあ手紙もフィクションですが。しかし近年の自分のなかには白紙をうめつくさんばかりの虚構が存在しないらしいので、不健全だと思うわけだ。 絵についてはほんとうに、いつのころだったか、自分が描けないということがもうヒステリー起こしたくなるほどいやだったのだけれど、あれはいったいなんだろう、自分は描けるはずだという根拠レスな思いこみがあったのか、ただとにかくなにかを描きたかったのか、ようわからんのだけれど、描けなくてもしょうがないと思いきったいまのほうが、ある程度は当時の自分を満足させてあげられるだろうものを描けるわけで、それは手が思うようにアウトプットしてくれないと歯噛みしていた自分にいってやりたいのだが、脳へのインプットの問題、つまり観察力に負うところが大きかったのだよと。そして観察力はたぶんあたまのよさに比例する、ので、やっぱりどうにもあたまがわるいことが自分が最初につまづいて、つまづきっぱなしにしてきた部分なのであろうと。 こうしていまでもあたまわるそなことをだらだらと書いてしまうあたり、いろいろ思うところがあるらしい。 27日(日) - - - - - - 28日(月) 日曜日のわたくし、寝汗がだくだくの昼寝のあいまに『夏と冬の奏鳴曲』を読むという、発狂する気ですかと問われればパピエ・コレとしか答えられないような所業。あおりをくってけさも湿気がたっふたふのなかどぅらららと出勤しましたが、ああそうだ、みんな湿気がわるいんだ。アーデルハイトが庭のヤマモモの実を「あっためるとうまいんだ」と茹でるんですけど、あの、ほんとに湯がくだけってかんじに茹でてそのままザルにあけて山盛りにしてるんですけど、なんですかあれ。湿気、湿気が。ぬりゃめがなかんじが。 先週1週間、あまりまっとうなかんじに生きていなかったので、今週はしゃっきりしなくては。その第一歩として、いま手のなかにある野ばらでジェノサイドな『木製の王子』はすみやかに本棚に返すべきだと思うんだ。 29日(火) しつどが86%だってあさのてんきよほうでおねえさんがいってた。 日中はそれなりに、それなりにっていうか仕事なので、まあ仕事ができるていどには活動しているはずなんですけれども、夜になるとあたまのなかがもう、しぼればしたたる無意味さでいっぱいになっているわけで、まあはやく寝たほうがいいんですけど、うっかり夜更かしまでしているわけで。 そういえば、きょうはじめてウィンブルドンの綴りを知りました。 30日(水) 車窓から巨大な櫛切りキャベツをみた。 いやなんか、なにかの建造物であることは理解しているのですが、まったくもって櫛切りキャベツ然としていたので、ちょっとびっくりしたんだ。月にいっかいは父の通院で通ってるルートなんですが、みおぼえのないキャベツだった。しかし帰りは席を譲ってもらったこともあり確認しそこねた。というわけで7月の通院のときは、ちょっと気をつけておこうと思います。 で、その帰りの電車のなかで、父が地元駅についたらお昼を食べによりたい場所がある、という話をはじめたのですが、というかそのまえの病院から駅までのバスのなかでもどうやらその話をしていたようなんですが(前置きなく「下にあるだろ」「まっすぐ行くとあるだろ」といいだしたので、「なんのことか分からないです」と返事しておいた)、「まっすぐ行って右にある」店に行こう、と。 「それは帰ったらそこでお昼を食べようという話?」 「そうだ、知ってるだろう」 「まずどこの店をいっているのか分からないです」 「分からないのか!」 「分かりません」 「まっすぐ行くとあるだろ」 「それ、駅の西口? 東口?」 「(無言)」 「ちなみに家のあるほうが西口です」 「じゃあ西口だ。いや、東口だ」 「東口を、まっすぐいったところ?」 「そうだ、あるだろう」 「まっすぐって、どっち方面にまっすぐですか?」 「(無言)」 まあ説明できるとは思っていないので、駅についたら歩かせてみようと思っていたのですが、しばらくするとことばを見つけたらしく「人間としてでて」といいました。はじめ聞き間違いかと思った。 「え、もういっかい」 「人間としてでるだろ。それで、まっすぐ行ったら着くんだ」 人間としてでる、の意がまったくつかめませんが、人間としてでてまっすぐ行ったら着くところって、のちに母からは「なにその禅問答」といわれた。ちなみに東口を人間としてでてまっすぐ行って右にあったラーメン屋は改装中ではいれませんでした。 |
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